2010.3.2
毎年この日は後楽園開園記念日なので餅つきやら紙芝居、明日の3日はひな祭りなので関連したイベントが催しされる。
知人の森下氏は餅つき、福田氏は紙芝居に活動されていてなにより。
行列に並び杵つき、きなこ餅を二ついただいて食べる。近くの幼稚園生が色とりどりの帽子を振り振り、杵の振り下ろしにあわせて「よっこらしょ!」と合唱する。餅つき人には大きい励ましになったろう。
この日は空気が澄んでいた。公園の各ポイントが明瞭にうきあがって望める。
茶店の緋毛氈椅子で抹茶を喫し暫しの春を堪能した。
毎年この日は後楽園開園記念日なので餅つきやら紙芝居、明日の3日はひな祭りなので関連したイベントが催しされる。
知人の森下氏は餅つき、福田氏は紙芝居に活動されていてなにより。
行列に並び杵つき、きなこ餅を二ついただいて食べる。近くの幼稚園生が色とりどりの帽子を振り振り、杵の振り下ろしにあわせて「よっこらしょ!」と合唱する。餅つき人には大きい励ましになったろう。
この日は空気が澄んでいた。公園の各ポイントが明瞭にうきあがって望める。
茶店の緋毛氈椅子で抹茶を喫し暫しの春を堪能した。
2010.2.27
我家で誕生日の祝いに外食の美味いものを家族で食べる習慣が定着したのは、息子が結婚して家族が増えたのがきっかけだから近々のことである。
美味いもので顔がほころび会話が弾んでいる女性群(?)を見れば幸せである。
今日は月遅れの私のバースデー。城下の「鉄板焼き」に連れていってもらった。海鮮コースを選び、鮑&肉、産地名品の野菜などがシェフの説明手焼きでもてなされる。一品一品の量は少ないけれど品数をかさねていくところよい満腹感になる。ワインが合口だが運転するので口にできない。
不洗観音寺に両家家族がそろい「安産祈祷」を受ける。
母子とも健康で無事の出産を願うばかりである。
我家で誕生日の祝いに外食の美味いものを家族で食べる習慣が定着したのは、息子が結婚して家族が増えたのがきっかけだから近々のことである。
美味いもので顔がほころび会話が弾んでいる女性群(?)を見れば幸せである。
今日は月遅れの私のバースデー。城下の「鉄板焼き」に連れていってもらった。海鮮コースを選び、鮑&肉、産地名品の野菜などがシェフの説明手焼きでもてなされる。一品一品の量は少ないけれど品数をかさねていくところよい満腹感になる。ワインが合口だが運転するので口にできない。
不洗観音寺に両家家族がそろい「安産祈祷」を受ける。
母子とも健康で無事の出産を願うばかりである。
20102.26
第25回岡山市文学賞贈呈式・記念講演会が市民会館であった。抽選で聴講ができたのででかけた。文学賞は市民童話賞と坪田譲治文学賞がありそれぞれ該当の表彰の後、坪田譲治文学賞の審査委員である五木寛之氏の「青い鳥のゆくえ」と題する講演があった。
主旨は受け取る人でことなるが、悲しい時は大地を叩いて泣き悲しみことで希望や喜びはその後にやってくる、ということではなかったかと思っている。
帰途の夜はよこなぐりの降雨、足許はずぶぬれになったが肝に入る余韻があった。
第25回岡山市文学賞贈呈式・記念講演会が市民会館であった。抽選で聴講ができたのででかけた。文学賞は市民童話賞と坪田譲治文学賞がありそれぞれ該当の表彰の後、坪田譲治文学賞の審査委員である五木寛之氏の「青い鳥のゆくえ」と題する講演があった。
主旨は受け取る人でことなるが、悲しい時は大地を叩いて泣き悲しみことで希望や喜びはその後にやってくる、ということではなかったかと思っている。
帰途の夜はよこなぐりの降雨、足許はずぶぬれになったが肝に入る余韻があった。
遅れてきたセツブンソウ
2010年2月22日 日常
2010.2.21
午後暖かい日差しに誘われて岡山市郊外の自生地めぐりしてきた。
三ヶ所に行ってみてもガクの未開花が結構目立った。峠を過ぎているのを覚悟していたのだが今年は様子が変だ。だいぶ遅れているようである。
土地の人と談笑もまた楽しい。新しい情報が得られる。
最後に立ち寄ったところは両側に山が迫り高原からの谷水がせせらぐ場所。置きわすられたように農家が集まっていて普段集落の車しか走らないのではないかと思うのだがなんと喫茶店ができていた。
空き農家の原形を生かして若い夫婦が主体に経営している。農家の居間に若者らしい電飾を配置してどこにもない喫茶店に装いにしている。床の間に畳、卓をおいて胡坐をかき本格的コーヒを味わう雰囲気も格別だ。
6月はゲンジボタルが飛び交うそうだから来てみたい。
いいドライブだった。
喫茶店は「新おかやま画像ルポ」に掲載。
http://sannyasou.sakura.ne.jp/
午後暖かい日差しに誘われて岡山市郊外の自生地めぐりしてきた。
三ヶ所に行ってみてもガクの未開花が結構目立った。峠を過ぎているのを覚悟していたのだが今年は様子が変だ。だいぶ遅れているようである。
土地の人と談笑もまた楽しい。新しい情報が得られる。
最後に立ち寄ったところは両側に山が迫り高原からの谷水がせせらぐ場所。置きわすられたように農家が集まっていて普段集落の車しか走らないのではないかと思うのだがなんと喫茶店ができていた。
空き農家の原形を生かして若い夫婦が主体に経営している。農家の居間に若者らしい電飾を配置してどこにもない喫茶店に装いにしている。床の間に畳、卓をおいて胡坐をかき本格的コーヒを味わう雰囲気も格別だ。
6月はゲンジボタルが飛び交うそうだから来てみたい。
いいドライブだった。
喫茶店は「新おかやま画像ルポ」に掲載。
http://sannyasou.sakura.ne.jp/
バンクーバーオリンピックでメヂァが氾濫している。
あまりTVを見ない人種なのだが夜のニュースはできるだけ見るようにしているが、こうも情けない競技の実態の焼き増しをどうだ!というばかりみせられるのは違和感がある。競技だからサバイバルである筈だ。平和のなかでの容認された争いなので、国威を高めひいては国益につなげなけねばならない。日本人が活躍したかっては精神が高揚したものだが今はさっぱりである。なんでだろうと思うが、身体的な負といういいわけはもう卒業したのではないのか、国家としての取り組み、組織委員会の取り組み等々の意見はあるがあえてこのことには触れない。
国民を代表して高揚させるのが目的だから「楽しんできます」などと言うような選手を派遣してもらいたくない。こんな気持ちでは勝てる筈がない。実際「メダル」を獲るを言った選手は気迫のこもった成績を挙げているではないか。
改革という名のえたいのしれない船に乗せられて大時化の漂流に遭っている国民は未だ漂着する地点をおしえてもらえずにいる中、なけなしの資金を供与しているのである。参加するのに意義がある、は今や死語だ。自国選手が国旗の下にたつと国民は勇気を与えられ生産意欲に勇躍できる。祭典の名を借りる国威サバイバルであることをかみ締めたい。
以上は独白一言。
あまりTVを見ない人種なのだが夜のニュースはできるだけ見るようにしているが、こうも情けない競技の実態の焼き増しをどうだ!というばかりみせられるのは違和感がある。競技だからサバイバルである筈だ。平和のなかでの容認された争いなので、国威を高めひいては国益につなげなけねばならない。日本人が活躍したかっては精神が高揚したものだが今はさっぱりである。なんでだろうと思うが、身体的な負といういいわけはもう卒業したのではないのか、国家としての取り組み、組織委員会の取り組み等々の意見はあるがあえてこのことには触れない。
国民を代表して高揚させるのが目的だから「楽しんできます」などと言うような選手を派遣してもらいたくない。こんな気持ちでは勝てる筈がない。実際「メダル」を獲るを言った選手は気迫のこもった成績を挙げているではないか。
改革という名のえたいのしれない船に乗せられて大時化の漂流に遭っている国民は未だ漂着する地点をおしえてもらえずにいる中、なけなしの資金を供与しているのである。参加するのに意義がある、は今や死語だ。自国選手が国旗の下にたつと国民は勇気を与えられ生産意欲に勇躍できる。祭典の名を借りる国威サバイバルであることをかみ締めたい。
以上は独白一言。
不洗観音寺は通称帯江観音寺で記憶していた。安産祈願、腹帯祈祷の認識は長い無縁の期間ですっかり忘れていた。
嬉しい報告を聞いたので来る日に参詣しなけねばならので、現地確認と祈祷手順を調べるために赴いた。広壮な寺院である。今日は戌の日で朝から多くの家族が参詣されたの事。午後遅く行ったのだがそれでも若い夫婦を伴った家族が切れ目なく祈祷の受付をされていた。他の寺院では見慣れない風景である。
詳しい説明を受けて、改めて息子夫婦ともに出直すので参観してから退出した。
嬉しい報告を聞いたので来る日に参詣しなけねばならので、現地確認と祈祷手順を調べるために赴いた。広壮な寺院である。今日は戌の日で朝から多くの家族が参詣されたの事。午後遅く行ったのだがそれでも若い夫婦を伴った家族が切れ目なく祈祷の受付をされていた。他の寺院では見慣れない風景である。
詳しい説明を受けて、改めて息子夫婦ともに出直すので参観してから退出した。
①山野草探訪撮 NO-188 「春待ちハクモクレン」
②新とある風景 田園風景 「里山の煙り」
③月別山野草探訪撮 2月の花 「ハクモクレン(蕾)」
http://sannyasou.sakura.ne.jp/
②新とある風景 田園風景 「里山の煙り」
③月別山野草探訪撮 2月の花 「ハクモクレン(蕾)」
http://sannyasou.sakura.ne.jp/
日中は好日、気温さわやかを見込んで吉備新線をドライブする。車横ずけのできる野に降りてセツブンソウを観察してみたがその気配はなかった。花が見られるのはまだ先になりそうだ。
霞がかかっていないので蒼天に稜線があざやかにみとめられる。この道路から一箇所だけ大山の雄姿が見られる、車を寄せて眺めると「冠雪大山」がくっきり稜線から肩を聳えさせていた。
21世紀の森で駐車した。道路肩に看板があってその下の張紙には森の「閉鎖」予告があった。自治体のあちこちの施設が財政状態のあおりをくって閉鎖宣告に追い込まれている。贅肉をそぎ落とすことは結構なことだ。このさい率先して改革し県民・市民への負担増加は回避しつつメリハリのある本来の機構になってほしいと期待しているものの、人間保持の自然回帰への道はみやまらないでもらいたいものだ。
21世紀の森は今後どうなるのだろうか?
シナマンサクとマルバマンサクが咲きハクモクレンの柔毛を光らせた穂がいっぱい枝を華やかにさせていた。
森は静寂に鎮まっていた。新芽を膨らませながら躍動の季節をうかがっていた。その息吹がよく伝わってきていた。
いい空気を吸って少し元気がでてきたようだ。
画像1:冠雪大山
画像2:山里の煙り
画像3:ハクモクレン
霞がかかっていないので蒼天に稜線があざやかにみとめられる。この道路から一箇所だけ大山の雄姿が見られる、車を寄せて眺めると「冠雪大山」がくっきり稜線から肩を聳えさせていた。
21世紀の森で駐車した。道路肩に看板があってその下の張紙には森の「閉鎖」予告があった。自治体のあちこちの施設が財政状態のあおりをくって閉鎖宣告に追い込まれている。贅肉をそぎ落とすことは結構なことだ。このさい率先して改革し県民・市民への負担増加は回避しつつメリハリのある本来の機構になってほしいと期待しているものの、人間保持の自然回帰への道はみやまらないでもらいたいものだ。
21世紀の森は今後どうなるのだろうか?
シナマンサクとマルバマンサクが咲きハクモクレンの柔毛を光らせた穂がいっぱい枝を華やかにさせていた。
森は静寂に鎮まっていた。新芽を膨らませながら躍動の季節をうかがっていた。その息吹がよく伝わってきていた。
いい空気を吸って少し元気がでてきたようだ。
画像1:冠雪大山
画像2:山里の煙り
画像3:ハクモクレン
小春日和ならお出かけ虫がもぞもぞするのだが寒風すさむ日々は亀の子のように首をすくませて部屋で遊んでいる。
暦上では立春、気分は浮つくのだが実態はそうはいかない。日本の国体のようだ。
若いときに読んだ小説「坂の上の雲」を全6巻(文庫本)再読した。司馬遼太郎の本はすべて買い揃えている筈と思い、書棚の普段めったにのぞかない処を探って引っ張りだした。余談だが濫読のあおりでどこにどの本が入っているのかの認識がない。置くところに詰まって一段に二列に押し込めているので呆れるほどの文庫本が出てくる。歳も歳だから近いうちに要らざる本を一度整理し処分しようと、さすがに思うにいたった。
さて「坂の上の雲」読了の余韻で思うことなのだが、このストーリは秋山好古・真之の兄弟、生きた分野は異なる正岡子規の物語。西洋の文明に愕然として維新革命をなしとげ無から遮二無二追いつけ追い越せで、なけなしの財布をはたいて近代軍備を構築し、強国の植民地占領、日本にとってはロシア南下脅迫に対抗して日清戦争、日露戦争を興した。列強に恐れなし、国体一心で坂の上の雲をみつめていた時代の背景に、個々だが一徹の生き方を長編に書き描いたものである。今世からみれば3人とも途方もない奇人である。それが真っ当の評価で生きられた時代、目標目的が明瞭に支配していたのである。
今膝元をみるならば、歩く道が見えないばかりか、保証の空手形に不安がはびこり坂の上の雲が見えない状態だ。
龍馬のごとき人物を輩出できない土壌に劣化してしまった、と思う。
この本のいまひとつの面白さは倒幕から明治政府重鎮の個性が手に取るように想像できるのである。
暦上では立春、気分は浮つくのだが実態はそうはいかない。日本の国体のようだ。
若いときに読んだ小説「坂の上の雲」を全6巻(文庫本)再読した。司馬遼太郎の本はすべて買い揃えている筈と思い、書棚の普段めったにのぞかない処を探って引っ張りだした。余談だが濫読のあおりでどこにどの本が入っているのかの認識がない。置くところに詰まって一段に二列に押し込めているので呆れるほどの文庫本が出てくる。歳も歳だから近いうちに要らざる本を一度整理し処分しようと、さすがに思うにいたった。
さて「坂の上の雲」読了の余韻で思うことなのだが、このストーリは秋山好古・真之の兄弟、生きた分野は異なる正岡子規の物語。西洋の文明に愕然として維新革命をなしとげ無から遮二無二追いつけ追い越せで、なけなしの財布をはたいて近代軍備を構築し、強国の植民地占領、日本にとってはロシア南下脅迫に対抗して日清戦争、日露戦争を興した。列強に恐れなし、国体一心で坂の上の雲をみつめていた時代の背景に、個々だが一徹の生き方を長編に書き描いたものである。今世からみれば3人とも途方もない奇人である。それが真っ当の評価で生きられた時代、目標目的が明瞭に支配していたのである。
今膝元をみるならば、歩く道が見えないばかりか、保証の空手形に不安がはびこり坂の上の雲が見えない状態だ。
龍馬のごとき人物を輩出できない土壌に劣化してしまった、と思う。
この本のいまひとつの面白さは倒幕から明治政府重鎮の個性が手に取るように想像できるのである。
少し風が冷たいが日差しのおかげで歩いていると体が温まる。のどかな史跡平野とでもいうべきか、歩を進めれば古代文化の跡に踏み入れることになる。
こうもり塚から、備中国分尼寺跡をたどり、県立吉備郷土館、松井の井戸を見て
備中国分寺に回った。
こうもり塚から国分尼寺にいたる田園は菜の花で黄色い絨毯になっていて春のはばたきが聞こえるようだった。
お馴染みの国分寺境内の休憩所で甘酒いただきながらしばし談笑。
18時から五重塔のライトアップに待機する。
西の稜線が真っ赤な入日になって東空に真ん丸い月が浮かぶ。
五重塔とセットになるように場所移動すると先客がちらほら。
完全に日が落ちて境内に入るものの足元がおぼつかない暗闇、どこそことなくカメラマンがいる気配。
境内からの五重塔は観る分には明るく浮き上がって迫力ある。しかし撮影向きではない。遠景のほうが構図になる。
手はじめなので早目にきりあげて車に帰った。
ライトアップは3月まで行われる。
こうもり塚から、備中国分尼寺跡をたどり、県立吉備郷土館、松井の井戸を見て
備中国分寺に回った。
こうもり塚から国分尼寺にいたる田園は菜の花で黄色い絨毯になっていて春のはばたきが聞こえるようだった。
お馴染みの国分寺境内の休憩所で甘酒いただきながらしばし談笑。
18時から五重塔のライトアップに待機する。
西の稜線が真っ赤な入日になって東空に真ん丸い月が浮かぶ。
五重塔とセットになるように場所移動すると先客がちらほら。
完全に日が落ちて境内に入るものの足元がおぼつかない暗闇、どこそことなくカメラマンがいる気配。
境内からの五重塔は観る分には明るく浮き上がって迫力ある。しかし撮影向きではない。遠景のほうが構図になる。
手はじめなので早目にきりあげて車に帰った。
ライトアップは3月まで行われる。
華麗なるオーストリア大宮殿展
2010年1月27日 日常
県立美術館に赴く。
中世ヨーロッパ、ウィーンにおける名門ハブスブルク家の生活を中心にした絢爛たる展示である。18世紀の女帝マリア・テレシアから19世紀の皇后アリザベートをコアに展示品が網羅されている。
日本人にして異文化の実態が学べると思う。
中世ヨーロッパ、ウィーンにおける名門ハブスブルク家の生活を中心にした絢爛たる展示である。18世紀の女帝マリア・テレシアから19世紀の皇后アリザベートをコアに展示品が網羅されている。
日本人にして異文化の実態が学べると思う。
創作手描友禅「猪俣洋子と華の会」の鑑賞に天神山文化プラザに行った。
知人の富田さんに各作品について説明していただいた。
詳細な技法は無知で解析できないが、友禅に、粗い布地に、あるいは紙に描かれた画は緻密で絢爛たる平安朝文化の世界を思わせる。趣味とはいえ人生を傾注できる作品はすばらしい。
会場で二科展の画伯と出会い楽しく鑑賞することができた。
知人の富田さんに各作品について説明していただいた。
詳細な技法は無知で解析できないが、友禅に、粗い布地に、あるいは紙に描かれた画は緻密で絢爛たる平安朝文化の世界を思わせる。趣味とはいえ人生を傾注できる作品はすばらしい。
会場で二科展の画伯と出会い楽しく鑑賞することができた。