歴史ルポー2

2008年7月16日
歴史ルポー2
 庭瀬城址に隣接している撫川城址に出かけた。
 庭瀬城址よりさらに西へ300mほど、露地のような通りを車を走らせると、ちびっこ広場がありその北に城址があって、巨木の杜が見えた。
 広場に停車して歩く。堀が周囲をめぐらして当時の石垣や土塁が風情を残して蝉の棲家になっていた。城ごとき面影は堀と石垣いがいにはない。三村家親が対宇喜多直家の前線基地として築城した典型的な沼城。目的からして規模や構造に本格的な建築物ではなかったのかもしれない。後年建てられた庭瀬城の一郭のなったようだから、禄高一万石では、いずれのものも城ではなく[陣屋]程度の規模と推察する。
 最終的な統治者戸川氏が領域は早島にまで及び、[早島陣屋]なるものが史実にあるので、ナビで検索して立ち寄ることにした。コンベックスを越え2号線の早島交差点で左折、小高い丘陵を軽四輪でさえ離合不能な道を登ると、戸川記念館なるものがあるにはあるものの普通の民家のたたずまい、土日祝日しか開館しない、との看板がある。周囲は軒を重ねるように民家でうまっていて、とても陣屋のかけらすらみられない。
 通りかかった老人に尋ねると、戸川記念館以外には陣屋に関係したものは皆目ないとのこと。

 兵どもの夢の跡が、今に偲ばれる。、

歴史ルポ

2008年7月14日
歴史ルポ
 以前から企画していた庭瀬城址に赴いた。込み入ったところにあって、一部分離合できないところにあった。
 平城で沼城。城らしき面影は石垣一部と掘割のみを残すのみで、栄華のよすがもない。しかし、西300メートルにある撫川城址をふくめ戦国時代から幕末明治維新まで風雲の変遷が資料に残っている。後日、新おかやま画像ルポで編集したい。
 大賀一郎博士の故郷とかで堀には大賀ハスが植えられ花を咲かせていた。
 

北のダム湖から

2008年7月6日
北のダム湖から
 梅雨明け宣言のない岡山地区。鍋底に生息しているような暑熱は、[うだる]の言葉がピッタンコ。
 逃避も兼ねて旭川源流地域に山野草探訪撮を実行。
 勝山から313号線を走るのは久し振り。旭川はここらで清流域に入り、両岸に広がる落ち着いた城下町の風情に清涼感を覚える。高瀬舟の通った川は等間隔に並んだ鮎釣り人で埋まる。
 313号線は福山ー倉吉を結ぶ国道で久世ー勝山間は181号線と重複し、長い距離のなかではここ湯原街道がしばしば交通止めなる。片側の旭川渓流は申し分ないドライブ景観だが、左側の山は急峻にたちあがる懸崖で、崩壊が多い。裾野がないので土砂岩石がもろに路面を打ちふさぐのである。今でも斜面にブルーシートが絆創膏のように貼られていて一方通行の工事区域がある。
 美作三湯の湯原温泉郷の前座敷に、真賀温泉、足温泉を抜けると幾分視野が開け米子高速道の高架をくぐり、湯原温泉の外郭を一気に回って通過したところで右折し不動滝への隘路に入る。案内板に沿って紆余曲折すれば突き当たりが不動滝の駐車場。雨乞山(882.3m)の公園にもなっているようだが、雨乞山は柔和な稜線に似ずに急傾斜の登山道でおよそ急登の連続、あまりにもあまりで、かっては途中棄権して下山したことがある。湯原入口の櫃ヶ山(953.5m)の方が裾を巻いて登るので登山には楽だ。と、いっても今の体力では敵わぬ山になったのだが、湯原に伝わる蛇伝説の民話の方が面白い。記述すると長くなるのでいずれなんらかの作品にしたいと考えている。
 この入口一帯にオカトラノオがふんだんに見られる。トラノオの中でもオカトラノオが雄雄しく端整である、トラの名に恥じない逞しくてしなやかな形の総状花序の穂を描いている。
 林内にウメガサソウがあった。一見、イチヤクソウかと見まがうが、ウメガサソウの方が花数少なく茎丈はやや短い。同じイチヤクソウ科で梅花そっくりの笠を下向きに咲かせる。
 重たい三脚を用意していたのでセットして持ち歩いたものの、持ち疲れしてギブアップ、セットを外した。やはり使いみちを考えた三脚が必要だ。それはいいとしても、もっとも肝心なめがねを忘れていた。ピントあわせが甘くなる。悔いても志方がない。
 313号線に戻り向かいの湯原ダム湖の堰堤導入路に入る。県道322号線になり、湯原ダム湖右岸を廻って蒜山に合流する。
 マンネングサが黄彩を放って崖に張り付いている。
 防護フェンスのなかにヒナランが咲いていた。フェンスに寄りかかってカメラを頭上に伸ばしてシャッターを切ったが、花冠3〜4mmなのでめがねなしでは、とてもかなわない。
 湖畔道路をすすめて木陰で昼食、ヤマメ釣りの二人の男性が例の胸まであるゴム長姿で現れ、どうやら貧果の様子。
 沢音が聞こえるあたりの対岸に、摩崖仏(?)、のような霧立不動尊があった。緑陰に埋れて全貌がよく見えない。
 桑瀬集落でUターン。
 霞ヶ丘公園を山歩。ヤマホタルブクロ、オカトラノオ、ムラサキニガナが遊歩道を彩り、頂の休憩舎では大きなクワガタ、カナヘビの午睡に出会い、クワガタが恫喝態勢、カナヘビは警戒態勢、腰を降ろして同席させてもらう気にもなれずこちらが敬意を表して退散。
 313号線の旧道に戻り奥津道に入り、馬渡(うまわたり)集落へ行き式内社神座の駐車場に停める。この社は合社で、佐渡良神社・形部神社等七社が合祀されている、一躍有名なったのが過年のNHK大河ドラマ[宮本武蔵]の撮影ロケで、市川新之助扮するタケゾウこと武蔵が、関ヶ原の戦いで西軍に雑兵で参戦、戦い敗れて宮本村に帰還、沢庵和尚に大杉にくくられて吊るされ、米倉涼子扮するお通が助ける、あのシーンがロケされたことで知られ、鄙びた山村は観光地になった。大杉は[佐渡良の大杉]といわれ、根回り10.7m、樹高43m、樹齢推定9百余年の[千年杉]の呼称で境内に聳えていて、鎮守の杜を旺盛に形成している。
 境内に立つと、段々の田畑がが山合いに広がり、ひときわ高く薄墨に天を突いている櫃ヶ山が浮いて望めた。
 
 
 
 
 
 

 
 

片山邸ー吉備高原

2008年6月21日
片山邸ー吉備高原
 藤戸寺の沙羅の花がピークを迎えたので、下加茂の片山邸に行ってみた。平成元年に個人から町へ寄進された屋敷である。幕末期まで名主であって酒蔵屋敷だったそうだが、改築を重ねているものの、一画は江戸時代の痕跡をとどめている建築や庭を見るのも楽しい。
 表門を通るさい、チラッと見ると白い花弁が地にあるのがみえ、さては遅かりし、と思い車を駐車場に入れ裏門から入る。一般屋敷では勝手口である。かっての農家を想像したらおよそ見当つく。広い土間に直接ぶつかる。ここは移管以来[飲食喫茶・茶房かたやま邸]として町が経営している。おりから昼食時、[きまぐれ弁当]を注文して、表庭に出てみると、まだ開花まではいかない状態だった。肩が堕ちたが、まだ次の機会があると思えばいい。南とはかなりの温度差を改めて認めた。
 昼食後吉備高原に走る(もっとも、片山邸そのものが広義でいう吉備高原なのだ)。
 表街道をはずれライトを点ける小径は、軽四輪車でもヒヤヒヤの不整備、上から横から枝が伸び倒木があり叢の片面は崖の谷、文章にすればこんな具合であるが何度も走行しているから難なく通りぬける。
 イチヤクソウは見るも無残、ササユリ、コウホネ、ノハナショウブ健在、シライトソウは茎丈伸びて健闘、ヤマツツジが見事・・という感想。
 雨降りの合間に駆け足撮影だった。
鳥取県境ーやまなみ林道
建部(ホタルブクロ・キツリフネ)−
上斉原(ギンリョウソウ・群落}ー
人形峠(ヤマブキショウマ・ササユリ)−
津黒高原(ハクウンボク・サワグルミ・ヤマアジサイ・イワガラミ)−
上杉渓谷(ニシキミゾホウズキ)

 緑と若緑の、くっきり住み分けた森林の中を歩き回り、亜高山の林道を走駆して心身洗浄してきた。
 窓から高原の風が吹き込んできて坊主頭を撫でていく。
 友人と爽やか撮影ドライブを楽しんだ。
      [1] 

大層なタイトルをつけたものの、チョイつまみ、の紀行である。
 平成11年に退職してからは大阪へ脚を入れたことがなかった。プッンと糸が切れたようであった。アルプスや八ヶ岳に走るのには当然通過するのだが、これは高速道利用であるからして、大阪の顔は見えるものではなかった。
 OB会開催の連絡をいただいたのを機に、時間はたっぷりあるのでJR鈍行(快速・新快速をつなぐのでえせ鈍行である)で往復し、回転寿司のごとき旅気分を味わうことにした。
 時刻表なんかみない。
 PCの区切りがついたところで家をでた。最寄の東岡山駅の改札で聞くと、和気行きが一番早い。姫路か大阪行きの電車に接続しているかと聞くとしていませんとのこと、ならば30分後の相生行きに乗って新快速の大阪行きにすることにした。
 プラットホームのベンチで寛いでいると、サングラスの雪駄履きの男性が小形犬のリードを引いて階段を降りて来た。片手に可愛い赤色の携帯ドッグハウスを携えていた。下り(岡山行き)ホームにはOGらしき服装が旺盛にサンドウィッチを食べていて、食べ終えると手鏡で念入りに化粧しだした。あとは判子を捺したように電車が停発車して、ときたま轟音をひびかせて貨物列車が驀進する、昼下がりの郊外駅頭である。
 相生行きの車内はガラガラ。上道、瀬戸、万富、熊山、和気、吉永、三石までが岡山県で、醍醐天皇が隠岐流付のさいに活躍した郷士児島高徳ゆかりの船坂トンネルを抜けると、もうそこは兵庫県である。かって応仁の乱前後の先祖足跡を訪ねて出発拠点にした上郡駅を車窓に見る。
 八の字に山の迫った南風景の駅がある。赤穂駅と相生駅である。赤穂はご存知義士の城下町、相生は石川島播磨重工業の城下町、それぞれ瀬戸に拓かれた港町だ。駅から眺めるとその港に向かって山が迫り漏斗の口のように街が見える。
 相生駅につくと反対側に新快速大阪行きがモーターを呻らして待機していた。おやつを買う間がない。
 始発だからここもガラガラポン。4人席を独占して脚をのばし、バックを置き、文庫本を広げる。通路向かいの一人は寝転がってお休み態勢。
 文庫本の文字がぼやけてくる。震える電車が睡魔を連れてくる。うとうと、ええ心持ちで失神していると、文庫本が床に落ちて音をたて、ハッと覚醒した。田園に麦秋が続いていた。
 左に白鷺城がかいま見え、姫路駅のプラットホームに滑り込むとドカドカ乗客が溢れ、贅沢な席利用はご法度になった。
 姫路までは内田百間の[阿房列車]の匂いがした。
 姫路からは須磨、舞子を除けば[密集]と[鉛色空]、コンクリートジャングルの[樹海]のなかを、新快速は一途驀進するのである。

 三宮駅を出ると、次の停車駅は尼崎駅。ここら辺りは古くは摂津と呼ばれ中世から群雄割拠の拠点になっている。
 
 横道に逸れるが追憶を繰るこにしよう。
 三宮と尼崎の間に[立花]という駅がある。普通電車しか停まらないがこのクラスの駅としては乗降客はバツグンに多い。この駅から大通りを南下すれば阪神電車の[出屋敷駅]に行ける。今は知らないが競艇場があった。私は20歳前後のとき、競艇場の少し北にあった長姉の家に下宿していて、春夏の高校野球には無料の外野席に入っては本を濫読していたが、入場料の要る競艇場には1回だけ、券を買わない観覧に行ったことがある。1レースはアッという間に終わり、レースは繰り返し行われ、ベンチや構内は異常な興奮の坩堝になり、外れ券が紙ふぶきになって空に舞う。全レースが終わった後は惨憺たるゴミ箱に化ける。人々は悲喜こもごもの鬼になった。
 私は小説のような、こんな世界もあるんだ、とおもった。その一回だけで、モーターの轟音を下宿先で聞くたびに飛び魚になって水面を駆けるボートの光景を再現することができ、狂乱になって咆哮する人間を推観することができた。
 忘れもしないのは出屋敷のガード下の屋台である。居並ぶ屋台に初めて入り、初めての飲酒でみんなが飲んでいる〔白馬]を飲んだ。田舎でいう[ドブロク]だろう。すこぶる呑み口がいい。阪神電車が脳みそをガタガタ揺するのを肴に、何倍かおかわりして飲んだものだから天地が急ピッチで回転しだし、椅子から転げ落ち地を這った。大地は観覧車のように大げさに舞い、私は狂ったようにゲロをつづけた。泥酔の頭に外れ券を鷲掴みして咆哮している人間が占拠し,阪神電車が轟音たてて走り廻っていた。
 気がついたのは深夜の風が頬を撫でだした頃、昔でいううなら丑三つ時、民家の軒下で天を見詰めていた。心臓が移動したような頭の疼きをかかえ、夢遊病者の足取りで帰りつき、姉に大いに叱咤されたものだ。

      [2]

 大阪駅は梅田にある。JR以外の私鉄乗降駅やバスはそのまま地名を駅名にしている。大阪府の顔になる地所だ。
 中央コンコースに立つと、何か違和感を感じた。何だろうかとおもいつかぬまま、地下降り口を抜けて正面へでてみると、工事中の障壁が並び前方の視界が全然利かない。ガードマンがいたので「トイレは何処にありますか?」と訪ねてみる。ガードマンは首をひねった。「ダイマルか構内のどこかにあるでしょう」
 こんどは当方が首をひねった。これではお上りさんはますます分からない。
 前が見えないと八方塞がりの蟻地獄の気分になる。反対の北方向に歩いてみると、これまた工事中の障壁に直進を阻まれていた。コンコースをぶらぶら歩いていると、以前の開放感が失せて両サイドからの圧迫感をひしひしと感じる。狭い、コンコースが狭い。外界の明るさを塞がれたせいだろうか。
 喫煙場所がない。阪急にわたる陸橋の傍らで数人が喫煙しているが、灰皿があるわけでもないので足元には吸殻が散乱していた。阪急側の薄暗いところでも同じような光景がみられる。
 指定の喫煙場所で喫い、デパートに入って階層表示の商品を眺めていると、案内係がすかさず寄ってきて、
「なにをお探しでしょうか?」と訊く。
「ん?、、」私は思いついて質問した。「土産もの、そう土産もの」
「それは食べるものでしょうか?」
「そう、食べるもの」
「それでしたら地下へお降りください」
「やあ、ありがとう」
 制服の案内係は深々と会釈した。
 この会話を文章で読むと大正か昭和初期のやりとりだ。
 食料の入りこんだ匂い、人いきれの臭いに辟易して外に出て陸橋を大阪駅にバックした。陸橋から眺める御堂筋も歌に謳われるほどの艶やかさが失せている。大阪駅で小腹が空いたので蕎麦単品を、ビールを添えて食べた。「ん?」硬い、二八ではなくて四六とでもいおうか、蕎麦の香り、味が伝わってこない。

 再び阪急に還りエスカレータで駅に上がる。どの電車に乗っても十三駅に行くので行き先を確認せずともOKだ。

 淀川を越えて阪急十三駅に電車はすべりこんだ。7年の歳月は止まっている。あいかわらずゴチャマゼの人混み、食べ物の氾濫、西出口にある名物饅頭も賑わって繁盛しているようだ。〈ビリケン〉像も健在だ。道路をわたって商店街を流してみた。変わりようのない狭い通路は泳ぐようにあるかねばならない。そのうえ自転車の無秩序な通行、置き方には素直に歩くこともままならず、ひどく疲れた。
 十三の名はどこからきたのだろう。京都から数えて13番目の橋があったとか、阪急創業者の小林一三からきたとかの、諸説を聞いているが定説はしらない。淀川が出来る前には中津川、神崎川の中洲にあって氾濫の憂目に何度かあい、淀川の整備で現況の繁栄地になったというのは当時知りえていた。
 人に酔い、空気に酔い、ガードを抜けて駅の東に出て会場にいってみたが1時間前とて、誰もきていない。駅沿いの筋に戻り、パチンコ店の前で喫煙、その筋を歩いてみた。今は知らぬが、かってこの筋は妖しげな雰囲気が漂う処、なになに劇場とかがあって、軒並や軒向かいには赤提灯のさがった間口の狭い飲み屋が連なり、ある店では闇にくぐもったひそひそ話しが洩れ、ある店からは哄笑がひびき、ネクタイを捻じ曲げたサラリーマンが赤鬼になって徘徊していたものだ。でも私には余り縁のない筋だった。
 駅から三つ目の筋にこじんまりした公園がある。
 花壇を囲んだベンチは尻の部分がピカピカよく光っている。隣のベンチには老齢らしき男の人がいて、足許には畳一枚ぐらいの大きさであるかないか、巻いた絨毯の切れ端を使い古したリュクサックに載せて置いてある。500mlロング缶ビールを飲んでいる。猫の水のみに似た音が文庫本を読む耳に伝わってきた。ヒールの音がしたので顔を上げると中年の女性が鼻歌を聞かせながら、男の横に親しげに座った。よく見えないが骨盤の張ったよくよくの美形にみえる。しかし着付けにも言葉にも[くずれ]が流れてきた。男のビールを取り上げて一口飲み、がさがさ包みを広げ、低い声で会話しだした。
「これ、食べてぇ」
「ねえちゃん、ありがとう」
「ええがな、自分も食べたかったんやし」
「それ、ワシのビール・・・」
「けちなこといわんとき。これたべえな」
 油の濃い臭いがしてきた。 
 隣地に神社がある。本を閉じて壊れた遊具を抜け境内にはいってみると、本殿、拝殿、その他あらゆる建造物を真っ赤に塗りあげていた。祭神の数がすごい。名のある神さま集まれ、といった具合。[富くじ]の神さまでもあるらしい。ぼんぼりの下を浴衣を着た男女が富くじの祈願に詣で下駄をひびかせている光景を、想像してみた。場所が場所だけに下町の艶やかさが漂う。
 
[3]
 OB会は盛会だった。懐かしい人ばかりだった。
 膳を越え、酒を酌み交わしながら近況を語り合う場に、心地よく酔いしれた。
 皆さん健壮で意気昂揚のお姿に接し感無量のひと時を過ごすことができた。

   [4]
 宴がはねて再び阪急電車で梅田に帰る。
 つり革に揺られ車窓に写るわが身を、どこの坊主かと想う也。
 浅田次郎の[地下鉄〈メトロ〉に乗って]という小説がある。
 映画化されたテーマミュージックが耳の奥に流れだした。
 すると無性に地下鉄に乗りたくなった。
 御堂筋線に乗る。
 駅を出るとゴウーと呻り暗闇に突入した。なんといってもメトロは一輌目と最尾の車輌がいい。一番前の運転席の後に歩いていった。怪物のような、生き物の迫力でなにもかも吸い込んでいく。
 暗渠の暗闇をまっしぐらにひたすら疾走するのがいい。過ぎ去った人生をも飲み込んでいく勢いだ。
 本町で降りる。このまま中央線に乗り換えて深江橋にいけば目的地の兄のところへ行ける。
 したが、梅田行に乗った。
 最尾に歩く。
 怪物はなにもかも吐き出して疾走した。
 過ぎ去ったものを全て吐き出してくれてまっしぐら、非特定対象物もなく、バイバイという気分に襲われる。
 浪速の一日は終わった。
 帳は降りても大都会は活きている。
                      [完]
 
 
 

 
 

 

ヒイゴ池

2008年5月31日
ヒイゴ池
 トキソウに降る雨はトキ色に見える。
 総社のヒイゴ池、トキソウはまだ大丈夫だ。
 小道具を全部忘れてカメラだけ持って出てきたので狙ったものが狙ったように撮れない。湿原に降った梅雨の走り雨に淡いピンクの彩りを観賞する。
 予報通り好天になり、カメラマンが集まってきて活動しだした。

入梅の花

2008年5月30日
入梅の花
 午後から吉備新線の路傍に咲くレニンソウを撮りに走る。本来草原に自生するそうだが、此処では他の草丈に絡んで生育している。茎が独特でヒレが両側について、一見カマキリの脚のように見える。花は紅から薄紅、白に多彩である。自動車が通過するたびに風を受けて揺れるのでタイミングを計りシャッターを切る。
 吉備高原に進み、ホナガタツナミソウの林床にいってみたら、ようやく穂を早立ちしたものが立浪の花をみせてくれていた。
 一帯の自然を管理されている人と話を交わしたところ、ホナガではなくてシソバタツナミだと、岡山の人が連絡してこられたそうだ。シソバもホナガも葉はシソに似たあくのつよい色をしている。見分ける要素は茎に映える毛の向きによる。明日もう一度確認しようと思う。
 帰途、横道に逸れて、マンテマを撮る。外来種の植物で、小さな花弁の赤い斑点をつけていて可愛い花だ。
 明日の天気が下降なので取り急ぎの探訪撮に暮れた。
ー画像はレンリソウー
まにわ山歩ー2008.526勝山エリア
 まにわ山歩[http://www.hiruzen.info/report/1170.html

 久し振りに参加した。
 勝山文化センターに10時集合。いつもお世話になっているK指導員のほか一般参加7人、8人の編成で出発。
 181号線を神代に走り、神代で左折し後谷川を越え、古呂々尾中(ころろびなか)に向かう。道は離合困難と、いわずとも、狭道を進み、とある集落の退避処に停車、だらだら坂を動植物に関する説明や質問の答えを聞きながら歩く。カメラ撮影はもちろん、マメにシャッターを切りながらである。
 若葉はぐんと濃くなった。
 陽の光を燦燦と受けて眩しいほどである。
 種田山頭火の句に、
「分け入っても分け入っても青い山」の名句の通りの空の下だ。 登り着いた峠が[和手]という処。三叉路になっており、古い地蔵堂が建ち中を覗くと右手で念ずる石仏が鎮座しておられる。道向かいに[地神]の石碑もあって樹幹を透かしてみると青田が光り、雨蛙にモリアオガエルが混じって、しじまに唱和している。
 この道は大佐〜勝山の通い道であろう、中世以降の街道であったかもしれない。草鞋に道中合羽、振り分け荷物の一本刀をぶちこんだ旅がらすか、はては背負いこの商人か、たどり着いた地蔵堂で一呼吸、流れる汗を拭き、梢をわたる風を袂に入れて行き交ったのでは。
 ふたたび車で、乢を走る。
 川床の見える清流で、カジカカエルヤカワトンボを観察。
 新見に至る県道32号線に出て、更に首尾川の狭道から[曲がり]という集落標識のある地点周辺で車を降り、文字通り叢の山小径を分け入って山野草を種々見て歩く。
 
 青い山なみに陽がちょいとかしいだ頃合いに車に着き、美味いコーヒーとお菓子をいただきながら今日の山歩を総括し、現地解散した。

【今日の山野草】
サルトリイバラ ジシバリ ガマズミ ヒメフウロ ヒレアザミ
コハコベラ ムラサキケマン ウワバミソウ ツルカノコソウ
カノコソウ トキワハゼ フタリシズカ コガクウツギ オニタラビコ トゲアザミ ヨシノアザミ マムシグサ フデリンドウ
 カシワバハグマ オオナルコユリ ヤニウツギ ナツグミ オヘビイチゴ ホウチャクソウ ミズタラビコ リョウメンシダ イヌシダ 北房・ジャケツイバラ等々 

五月晴れの吉備高原

2008年5月22日
五月晴れの吉備高原
 すっかり緑が濃くなった吉備高原を探訪してみた。
 車内は暑い。
 吉備新線に乗ると両サイドの窓を開放して走った。吉備高原への風は爽やかで緑の匂いを含んだ空気を流してくれる。吉備高原都市の青空市場にあるうどん屋さんで昼食をとおもったが、生憎休業日、しからばと思い上加茂川まで降りて[片山邸]で、きまぐれ弁当なるものを食べた。
 ここまで来たら円城へ走らねば、と先ず岩倉公園へ高度を上げる。なんでも岡山県の中心にあたるらしく、こんもり盛り上がった丘に銀玉のモニュメントがあって、ヘソなる石の彫像がある。
 今は珍しくなく、至るところの芝地に見られるようになったニワセキショウが群落で咲いていた。明治時代に北米から入った外来種である。
 展望台からは二上山、本宮山、大平山、など高原を代表する山が望めるものの、蒜山三山は霞のなかに消えてみられなかった。吉備高原中心地に帰り、山中へ足を踏み入れる。ちょっと早いかなと予測したが、シライトソウは咲いていた。例年斜面が白く幽玄性を漂わせながら咲くのだが、今は未だ其処まではいかない。しかし盛期はまもなくだ。
 ナルコユリが点々とあり、写しながらたどっていくと、びっくりするような大株に出会った。
 ちょうど日暮れにかかる前、髪をなびかせて(?)高原を走り下った。

吉備遊歩

2008年5月17日
吉備遊歩
 過日、オレフ句会の吟行で吉備津彦一帯を歩き、パチパチ写真を撮ったが、撮り忘れて咽喉に刺さった骨のように後悔している処を撮りに行った。
 両国橋と細谷川である。
 古代吉備王国の桃源郷に隠れた存在である。吉備の領土が広大なので権力の分散を図り、備前&備中に分割し、その両国に引かれた境界線が細谷川であり架橋の名が両国橋なのである。と、いっても多分物知りの人でない限り車で通行していたら100%認識することはないだろうと思うぐらい、ちっちゃな川と橋なのだ。しかし細谷川は、万葉集に詠まれている名所で俳句、短歌、和歌の世界では欠かせない題材になっている。
 課題を撮り終えて、吉備津神社に立ち寄った。
 吉備津神社は拝殿、本殿の修理工事中で、網目のシートから比翼入母屋の金襴と五月晴れに輝く威容が上部分だけ覗いていた。
 この神社で一番好きなところは北随身門から西へ数百m続く回廊である。極彩色の部所は通過するだけでいい。回廊に足を踏み入れると心が落ち着く。

 吉備津彦を祭祀する神社は吉備に二つあるのはご存知の通り。
 吉備津彦神社と吉備津神社であり、前が平安時代、後が室町時代に造営されている。いかな理由で備前に一つ、備中に一つに同祭人の神社が成り立ったのか詳細は調べていないが、好き嫌いでものを言ってはいけないものの、吉備津彦神社の豪壮でありながら沈着な雰囲気のほうが性に合う。
 いつか[新おかやま画像ルポ]にとりあげたい。

成長観察

2008年5月16日
 津高での所用を済ませて吉備高原に走ってみた。
 はや深緑の装いが車窓に見られるものの、吉備高原道路の頂点にたつと空気はさすがに冷えを感じる。少年の家で合宿しているのだろう、中学生の群れが鳴滝界隈の山道を歩いていた。すれ違うと元気な声で挨拶してくれ、五月晴れのすがすがしさを感じることができた。
 狙いは落葉広葉樹の下に自生するホナガタツナミソウだ。
 6月の花なので、やっと花芽が根生葉の中央に出た状態だった。シソ科特有の葉を地にはりつくようにして株を群生していて、先ずは順調な成長を確認した。

模様替え

2008年5月15日
 HPの一部模様替えを実施した。
 過去幾度かやってみて、ジャンプ、リンクの設定が狂い、修正すのがタイヘンな労苦であるのを身に沁みているのであるが、性こりなくやってしまった。
 案に違わず正すのに数日かかった。来訪していただいた人にはすくならからずご迷惑をおかけしたと思う。
 やっと点検して自分なりの合格をだしたのだが、末端のリンクにおかしいところがあれば、どうか指摘をお願いしたい。
 

5月 オレフ句会

2008年5月11日
 例会に出席。
 締切り前に駆け込み投句。
 推敲していないのがもろに出た駄作。
 慣れれば慣れるほどに難しい。散文にどっぷり浸かった身にはなおさらである。余分な表現が多い。削ぎ落とした句にしなけなばと思うものの軌道修正は難しい。
 しかしこういう句会時間への没頭は貴重な人生だと思っている。
 全館にわたって展示されていり規模の大きい展示会。伊賀氏と観賞していく。書道に精励され名を馳せておられろ知人、同窓友人の知己を得て親交いただいているので書道展に出かけることが多く、観賞の栄誉の浴している。
 東アジアに深く浸透している分化の展示会が岡山の地には多く開催されている。岡山は文化を育み発露できる地なのだ。
 この世界についてはもとより浅学であるのでとかくいえる資格はないが、「新おかやま画像ルポ」で取材していると、書の先人に出会えるのはこういう土壌を強く感じる。
 展示作品全体に筆跡の太い力強さを感じた。雅な細字の流体性もいいが足を停めてみるのはやはりこのような筆太の作品である。一幅の絵として見て人間の逞しさが得られるからだ。
 尊敬する友人の角 羊亭氏(理事)の作品は3階にあった。
 [温故和新]と豪放に書かれている。コーヒーの接待いただきながら心行くまで観賞させてもらった。
 

麺食い行脚

2008年5月4日
麺食い行脚
 三度三度うどん、そばを食べるほどの麺食いではないつもりだが、探訪撮で未知の土地に行って、ちょうど食事時に引き寄せられる店構え、看板、暖簾を見ると、弁当を持っているのに関わらず暖簾を分けて入っている。興味本位の麺食いかもしれない。領はのぞまないが、美味いと思ったら訪れる都度立ち寄るし、まずいとはいわないが今いちの物であったら2度と行かない程度のことである。

GWの家族小旅行は[麺食い行脚]にでかけた。

 高松はご存知の通りさぬきうどん発祥の地でうどん屋さんが氾濫している街である。歩けばつまずくほどのうどん看板につき当たる。有名ブランドから小さな屋台風の店もある。有名なところは期待通りのものでそれ以上のものでもない。端的にいえば個性がないからそこそこという感度だ。滅多にこられないのだから特有さを売り物にしている店がいい。それではと、息子が推奨する話題の[婆ちゃんのうどん]に行くことにした。 

 新装なった駅前通りをぐ〜んと南へ走り高松市香川町へ行く。家族4人の[麺食い小旅行]だ。居眠りしていたので細かい道順は分からない。が大通りから少し入った田圃を造成した場所に建てられた店である。
 着いたらまずびっくりする光景に出会った。客が店外に溢れ長蛇の列、ざっと40人の列。近場ならとても待てないし、私の性格では[帰ろう帰ろう]というような光景。家族は迷うことなく並ぶ、しぶしぶ後につく有様だ。間をおかず後続ができる。
 店の人が口に手で喇叭をつくって[どこで麺がきれるか分からないのでその覚悟をしておいてください]と叫ぶ。目の前で、ハイここで終わり、なんていわれたら[ウゾだろう!]と言いたくなる覚悟の強要だ。何度も店の若い衆が麺の残数と待ち客の数合わせに出てくる。私のところを通過していった。これはこれは、無事にクリアしたのだ。すると、立て看板を持った若者が[申し訳ありません、ここで午前中の分終了します。あと4時から午後の分を再開します]と、行列を割ってそれを立てた。20人ばかりがあおりをくった。腕時計は午後2時を射している。
[ちょっと休憩させてください。僕らは朝5時から休みなしでやっているんで、午前中はここまでにさしてください]と2〜3人の若い衆がお詫びやらお知らせをしだした。
 店内は広くない。客が座って食べる仕組みになっていない。岡山にもあるセルフうどん店よりかなり狭い。入口つきあたりが麺うち場で熟成させている麺玉がビニール袋に包まれて棚に並んでいて、なるほど残り少なくなったとみた。
 メニューは[釜揚げ]と[冷やし]の2種しかない。[本日はお一人さま1玉限定]との張り紙があった。私のしるかぎり、2玉〜3玉も食べるのは身近ではI師匠かM社長しかいない。普通の人なら1玉が王道である。窯場で丼に盛る、それを今一人がスプーンできざみ葱をひとすくい載せる、出口の会計場で支払いし醤油を、ポンプ式なので3回押して麺にかける。これを屋外のテーブル(屋根はある)でかき混ぜて食べるのだ。
 一口で、美味い、と呻った、こしが強靭でありながらそれを感じさせない食感。さぬきはもともとこしがつよいのだがここはかなり強い、だけどメチャメチャ旨い!、今まで食べてきたうどん
を比較してみて一番旨い、思った。これで150円、2玉は250円、3玉なら350円。高いと思うか安いと思うか、メチャ安いと思う。
 いま一度窯揚げで卵をかけて食べたいと念じたがダメ。
 箸を動かして食べるとたちまち底が見え、これはイカンと思い、1本ずつつかんで口に運んだのだが直ぐなくなった。子供のように底の汁を箸でつついて口にするのだ。
 讃岐路にきたらまずもってここだなあ、と誓った。
 NETで[婆ちゃんのうどん]と検索したら詳細がわかるので紹介しておきたい。
因みにイインタネット・アドレスは下記の通り。
 http://www.mirakuen.net/item/rumiba-chan.html

 高松駅広場サンポ^トで開催している[シルクロードは麺ロード 世界麺フェスタ]に行く。トルコ、イタリア、中国、日本のシルクロード沿いの、世界・日本[有名麺]の食べ歩き、がスローガンのイベント。到着が遅かったせいで食べたい麺は相当売り切れ張り紙があり、残っているところは長蛇の列。長蛇におどろかなくなって中国のラーメンを小さな発泡スチロールの器で食べる。食味はともかく極少の量で賄うのは[食べ歩き]を実践する量に調整しているからだろう。イタリアのパスタは口に合わなかった。シルクロードの各国の人が多いし現地語が呪文のように飛ぶ交う。それより、宇和島のジャコテンをアツアツでほうばったらこれは旨かった。のどごしのいい液体が欲しかったがここは我慢した。
 3〜4箇所でシルクロード沿国の舞踊が行われていたが、出前の演出舞踊には興味がないので写真数枚映して会場をあとにした。
中国の紅の群団が一段と目を惹く。
 屋島の四国村に行った。夕闇が漂い始めて懸念したように[わら屋]は新客は入れなかった。
 屋島頂上で屋島寺から展望台まで歩いて一巡。一時水族館を初め衰退はげしかったが、どうやら少しは活気が戻った様子。イルカの元気な声が森閑になりわたっていた。
 カワラケを投げて家族繁栄を願掛けしょうと思っていたが、照れくさいので止めた。

 とっぷり日がくれて国道フェリーに着いて、コンビニのお結びをで締めくくった。意外な[麺食い行脚]を終わったのである。   
 
       [画像は世界麺フェスタでの雑踏ぶり]
 

岩井滝

2008年5月3日
岩井滝
 納涼は気早い、といわれる様だが上斉原の岩井滝にでかけた。
 いわゆる[裏見の滝]である。
 奥津辺りで気温23度の表示で岩井滝の山とて20度寂だろうと思うのに、滝への登山口から滝までの渓谷には雪渓が随所にあった。
 名水で、お茶の水にすると一番上手いというのでポリタンにマンタンにして往復する親子がいた。デジカメだけでも足が重いのに、親子は両手にポリタンマンタンを持って駆け下り、また登ってくるのにはびっくり仰天!
 彼らは烏天狗ではないのか!
 登山道にミヤマカタバミが多くあり日陰にいち早く花弁をすぼめていた。巨木、巨石が目を惹く。苔むした上にはキクザキイチゲが繁生しているのは嬉しかった。
 滝自体の規模はびっくりするものではない。
 この滝を有名にしたのは、流れ堕ちる滝の裏に回れるからである。そこには不動明王が祭祀されてあった。
 せっかく此処まできて裏見をしない家内は滝つぼ横のベンチに座って、滝水越しに手招きして早く下りて来い、という。少しは齢を考えろともいうのだ。それほど危険な道ではないのに。
 名の知らぬ野鳥がカン高く木霊する。
 登りはえらいが下りはお手のもの、易易と車の処に還った。小天狗ぐらいはいけそうだ。
 だがコンクリート舗装や岩道の急勾配の階段、さらに濡れているとくれば、年寄がすることではないと思いつつ。
庄原市から新見市へ
 庄原市;アケビ、ウグイスカズラ、ワダソウ、クサノオウ
 鯉が窪湿原:リュウキンカ、ショウジョウバカマ
 新見健康の森:ニリンソウ、コンロンソウ、シャクヤク

 心地よい探訪撮だった。
 (画像はアケビ)
北房山野草展&豊永探訪撮
 北房山野草愛好会主催の[春の山野草木展]が北房文化センターで開かれているので、M175氏と出かけた。
 吉備中央町から高梁域に入る途上には、キュウシュウコゴメツツジ、ヤマルルソウ、オカオグルマ、キランソウが咲いていて観察しながら会場に着く。
 主宰者の皆さんの説明を受けながら丹精を込めた作品を観賞する。山野草の多くは花屋の店頭を飾る植栽植物の華やかさはないが、原点の趣はなににも替えがたい味わいがあり、自然そのもの色彩、姿、形が存在している。
 小さな鉢にそれぞれの山野草に合った自然を作るのには、自生環境を変えることなので言い表せない日ごろの管理が必要だ。
 春、秋の年2回開催されているので、秋季開催がちかずいたら当HPでも広報コーナーで紹介したい。

 豊永に走り、イチリンソウ、ニリンソウ、ヒトリシズカ、フデリンドウ、ホタルカズラ等を撮影した。

北へ

2008年4月25日
北へ
 午前中身体不調に悩まされたが、後刻快復して美作市の北端に走る。車内は汗を覚えるほどの暖かさは朝夕の冷え込みを忘れさせてくれる。
 ヤマブキソウ、ラショウモンカズラ、イチリンソウ、キクザキイチゲが盛花で迎えてくれた。
 

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