英田町河合

2005年3月15日
 不機嫌なユキワリイチゲ、無愛想なアズマイチゲ。
 今日も空振りに終わった。

 

冬戻り

2005年3月12日
 天気予報は曇り晴れ、まずまずと思い英田町河合にアズマイチゲを撮りに出宅。
 菊ヶ峠を越えると晴れ・曇り・吹雪が交互に現れる。いやな予感。はたして河合は吹雪の世界。北風ピユーピユー寒いし冷たい。
 管理人は今は頭を垂れてすぼんでだめです、陽が射したら2時か3時に出直してみてくだい、とのこと。まず検分と入らしてもらったものの花たちは花弁を閉じたまま。
 日をあらためての出直しになった。

暖かい日和

2005年3月6日
 全国的に降雪の予報のなかで岡山は好天気。朝「紀行」を書いて登録終了。午前中佐藤愛子の「血脈」の下巻を読破。
 午後吉備高原を徘徊。
 高知県大豊町南大王にでかけた。一行7人。
 4年通って初めて積雪のロケーションに恵まれた。
 雨上がりの陽射しのなか、A氏と岡山を出発したのが10時。吉備新線から大井線に出て御津町の「紙工」に”セツブンソウ”を撮影に行った。着いたとたん、白いものが降ってきてたちまち吹雪になった。
 田んぼの畦道を進んで山裾の梅林と墓地跡にセツブンソウの自生地がある。少し蕾を残し、ほとんどガクを開いていたが、反り返るほどのものは時間的に早かった。
 突き当たりの左側にある白色を撮り終えると、右手の墓地あとの周囲にピンクかかったものがあるのでそれもカメラに収める。そこには土地の古老が二人ストーブを囲んでガイド兼張り番しておられる。
 手指が凍てついて感覚がなくなるほどの寒さだ。

 次に英田町の河合に向かった。
 ここは栗林の下に自生地がある。観光客やカメラマンがダントツに多い。
 それにしても寒い一日だった。
 1週間の間をおいて昨日師匠と布寄に入った。
 遠目でもはっきり白い絨毯が見えるようになった。まだ蕾が多いが周遊路の傍には花弁を広げたものが集まっていたのが満足させてくれた。
 カメラのモードダイヤル、コマンドダイヤルなどのセッテングをいろいろ変えて撮影してみたが、出来栄えは不可。出直しである。

 
 高梁のかぐら街道を入っていくと滅多矢鱈に枝道がある。蜘蛛の巣をかけたように見える。まだ工事中で通行禁止のヶ所が随所に現れる。吹屋、坂本、宇治、備中町、成羽とかの方向標識は合点できるが、他所からのドライバーは認識のない地名の標識だけだと何処へ抜けるのか判らずはなはだ心もとない。
 春になったら未知の山野草探訪しょうと知らない道を走っているものの実感である。
 吹屋に出ていつもの田舎そば屋で昼食を摂る。
 布寄のセツブンソウは一輪二輪と咲いていた。
 完全に花弁を開ききっていない、八分咲きだった。
 白い粒を撒いた様に蕾があるので、あと1週間すれば見ごたえする風景になるだろう。

三徳園

2005年1月30日
 昨日はひながパソコンで〔HP更新情報〕を作成していた。外出はリュウの散歩で2回2時間ほどぐらい。イヌの習性はすごい、いつも自分が歩くコースを決めていて、たまにご主人が風のあたらないマンションの通りを歩こうしても、てこでも動かない。足4本でふんばって精一杯抵抗する。彼は田んぼのあぜ道が好きでしょうがない。春うららの気候ならいざしらず、寒風ふきさらすあぜ道なんか御免こうむりたい。それでも2回に1回は可愛そうで彼のリードに譲るようになる。これではどっちが引率でどっちが随行かわけがえあからなくなる。
 ところで今日は午前中〔HP更新記録〕の仕上げで潰し、午後近所の藤田さんを誘って撮影にでかけた。
 最初に山陽町の高倉山に。ここはハイキングコース。でもありがたいことに頂上まで車を乗り入れることが出来る。わらびのいいのがあるのでそのシーズンは何べんも通った処。そのごずいぶんご無沙汰していた。なにか撮影対象物はないかと探しながらの離合困難な山道を走る。
 頂上は公園整地されていてサクラの名所になっている。5月になれば花見客で溢れるところだが、真冬の今は閑散として麓からの吹上が裸の梢をゆするばかり。緑がない分だけ眺望は素晴らしい。真向かいに金山が対峙していて山肌に千枚田が収穫の余韻を見せ、眼下に旭川が白蛇のようにうねり金川の集落を北東にかかえている。南は備前平野が一望である。
 澄んでいると北は大山、南は四国が天空に映る。
 備前平野を望みながら一組のカップルがおにぎりを食べていた。この寒空に、と思うのは野暮の骨頂。カップルは冷蔵庫のなかでも暖かいもんなんだ。
 下山して小鳥の森の三徳園に向かう。
 展示館の裏にロウバイが咲いていた。 
 灯油で暖めている温室に入り咲き誇るランを愛でて写真を撮って帰途についた。
 

県立美術館

2005年1月16日
 緑川洋一展にでかけた。瀬戸内を舞台に光の魔術師といわれた写真家の編纂が総覧できた。
 土門 拳や秋山庄太郎との交錯のなかで独自に走り大成した足跡の一端がうかがえた。

雪かあられか

2005年1月9日
 暖かい冬というのがウソのような寒さが蘇ってきた。
 昼前ちらほら白いものが降ってきた。
 連休で何処かに撮影行と思っていたがストーブの利いた自室に閉じこもり、パソコンの保存ファイルなどを整理したり推理小説を読んでいると時間が経ってしまった。
 愛犬リュウが散歩をせがむので、日に2回ほど外出する。ビニール袋と園芸用のスコップをぶらさげて、ダルマのように着膨れしてでかけるが冷たい風にはデストロイヤーキャップが欲しい気持ち。
 公園の縁や田んぼの畦に越年するホトケノザはついこの間まで舌唇形の花をみせていたが、もほとんど落ちて蓮台の葉だけが緑々している。
 七草かゆのひとつに「ホトケノザ」がある。しかしこのホトケノザはタラビコという草で、ここでいうホトケノザではない。前者はシソ科で後者はキク科の外観もまったく異なる植物。
 さすがのセイタカアワダチソウも枯れ穂になってザワザワゆれて音だけが騒がしい。寒さが倍加する音だ。
 リュウよ、お前はいいさ毛深いコートを着て。
 早く帰ろう、お前の主はやはりストーブの傍がいい。
 歳末から手がけていたHP更新の総点検。あちやこちや間違い不備が見つかり修正は14時終了。
 雑煮は朝食べてもう結構。少しのお茶漬けが滅法美味い。
 朝明けもまだの頃家の前を賑わす車や人が今年は少なかった。
 進学の神様と言われる竜之口八幡宮の初詣はいかがなものか。
 年末ジャンボ・・・、億円当たった夢は正夢、いやはやのもの。それでもいい夢をみさせてもらった。
 さてこれから寝正月と腰をあげると、愛犬リュウが散歩に連れていけと矢のような催促。犬は寝正月が嫌いらしい。
 元旦から犬にひかれて散歩とは。
 めでたさもほどほどかな。
 

寝もやらず

2004年12月29日
 昨日の晩から、「寝もやらず」とはいささか大仰だが、編集改訂に取り掛かった。いったん手をつけると一定の区切りがつくまでしてしまわないと気がすまないO型の典型人間。
 粗し上げで就寝、今朝総仕上げで完成。
 イメージどうりに出来たと慢心しているが、はてさて。

 更新は大晦日に予定。除夜の鐘を聞きながら、はてさて。・・予定は決定にあらず、だから。

冬の丘

2004年12月23日
 昼前窓越しに明るい陽射しを見て山に行こうと、突然思い立つ。時間が時間だから遠くには行けない。長い間歩いていない鬼ノ城にした。
 180号線を足守に入り農道から新しく復元された稜線に光る鬼ノ城西門を写し、砂川公園を抜けて走る。
 砂川公園と鬼ノ城は点として整備されて脚光を浴びているが、連絡道は細く車が対面すると離合がままならずどちらかがバックしなければならないのは、少しも解消されていない。
 鬼ノ城は復元整備工事中。駐車場からいきなり急勾配で角楼にたどり、すぐ下に西門が備前平野、児島半島、四国を睥睨している。いずれも工事中、先の台風での局部崩壊修復中という状況でブルーシートが絆創膏のように張り付いていた。
 クリスマスというのに暖かいのは確か。秋のキリンソウやヒメジョオンの群落があり、驚いたことにはツツジが咲いていた。他の木々もガクにしっかり硬く護られているはずなのに、ガクがはじけるのではと思うほど膨らんでいた。
 それでも渓谷から、谷越えからのの風はさすがに冷たい。三脚をセットしたカメラを持つ手指がしびれるほど冷える。キタナイ話だが鼻水が止まらなくてチィシュペーパーで鼻頭が痛くなった。
 屏風折れ城壁に沿う遊歩道を一巡、UP−DOWNを繰り返してていると最近にない息切れがする。
 楽な探訪撮が続いているので運動不足が如実にあらわれた。
 キレイな夕焼けに送られて下山した。

苫田ダム見学

2004年12月5日
 山陽新聞の1面に苫田ダムの試験湛水が最高位に達したとの記事が載っていた。昨夜来撮影用意をして就寝したが嵐のような天候に、諦めていた。目覚めた時は陽がさして思わぬ好天気。
 だから出宅がかなり遅れた。院庄ICを降りたときは11時。
 国道179号線を男山トンネル抜けるとかいま目線のやや下に満水の人工湖が見えた。遥か下位にあった谷、そして集落、田畑、吉井川は完全に湖底に没していた。
 ダム湖への道にはいるとその有様はまざまざと映る。小高い山が浮島になって頂部が公園に変わり、竹林や芒が水中に生え旧道のガードレールが湖水に落ち込んでいる。観光と特別思い入れのある車の大渋滞に巻き込まれた。仕方がなく道路脇の駐車列に割り込み、徒歩でダム堰堤まで行く。折から時雨、ダムからの放水が舞い上げる飛沫で全身が濡れる。
 試験湛水は150年に一度の可能性ある大雨満水に耐えうる試験をするために最初の一回のみの貯水である。今時代生を享けている人々には二度とお目にかかれない光景である。
 堰堤のすぐ下、V字形の非常用洪水吐けから堰堤を這う紋水、ほぼ中央の放水ゲートから越水は巨大龍の噴水のごとく、ダム下の川床を叩き飛沫が白い塊になって上空を覆い人々に降りかかる。
 今日午後2時に放水ゲートを開放し除々に水位を下げ平常水位を維持するとのこと。したがって非常洪水吐けの滝は150年単位まで見ることが出来ない。
 帰途、旧道に乗り入れダム下の河川敷に立つ。
 雨か飛沫か、全身ずぶ濡れ。
 181号線はカラリと晴れていた。

小豆島・寒霞渓

2004年11月27日
 KOKOROの会で小豆島寒霞渓に。
 渓の紅葉は見ごろを過ぎて褪せてきている。楓の先に痛みが目立つ。
 ロープウェイ頂上駅の広場から三笠山に直登してみる。
 景色が素晴らしい。瀬戸内は鰯が撥ねるようなギラギラした春と違って穏やかな海。ただ凪波は油の海のように陽を照り返し撮影対象にはなりにくい。今日持参したカメラはオリンパス10Xでコンパクト。手軽い行動するときはこのカメラが機能を発揮してくれる。
 映画村等見学をへて帰岡。
 紅葉の寒霞渓は初めて。
 今年は紅葉を追いかけてきて、これで幕が降りた感じ。
 

弥高山

2004年11月21日
 5時起床6時出宅で川上町高山弥高山を目指す。目的は〔雲海〕で、それにしては出発が遅すぎる、ことは万々承知の上。 
 愛車を飛ばしても2時間近く掛かる。
 もう数十年前、頭髪若かりし頃に管理棟まではドライブした覚えがあり粗道を乗り越えの印象を手繰りながら走ったが、いやいや川上町中心部から国道313号線に別れを告げても拡幅完全舗装で、岐路に入ってもどっちが幹線か分からないほど整備されていた。案内標識がなかったらきっと一度は迷ったに違いない。
 弥高山公園の一方通行の最奥にある駐車場に停めて車外に出ると、陽は登り肌を刺す西風が身を包む。
 カメラをセットした三脚を担ぐ指が痛い。
 弥高山は標高653.7?。駐車場から10分そこそこで頂上にいけるので山というよりお椀を伏せたような丘である。ツツジで有名。
 丘をらせん状に巻いた遊歩道は進むごとに異なった遠景が楽しめる。視野を遮る山がなくすべて眼下に望めるということは、丘ではなくて山である認識をしなくてはならない。しかし肝心の雲海は期待外れ。風が強くて文字通り霧散の有様。
 頂上の東斜面は風裏になり日が射して暖かい。雲海を狙うカメラの放列。声を掛けて聞いてみれば、本日はさんざん也との答え。それでも「らしき」ものを撮影。
 帰途、磐窟谷の紅葉を見て帰岡した。ここは夏に訪れると山野草の花がみられるかも。

続・新庄宿界隈

2004年11月14日
              ★
 後醍醐天皇の流布の道、旧出雲街道に入り、歌碑のある公園で紅葉を楽しむ。
 谷沿いの敷きに見事な紅葉が陽に映えていた。
 奥津渓の紅葉に比肩する彩り。

 新庄宿の脇本陣前の水路にミニの水車が回っていた。通りに人気はない。これでつむじ風が舞えば三船敏郎の「用心棒」が出現する。
 この旧街道は凱旋桜の並木で知られていた。
 いつ植栽されたのか知識はないが、日露戦争の凱旋で提灯行列して祝ったことに因んでガイセンザクラと呼ばれるようになった。さくら百年を越え、かなりの老樹の太幹はホコラだらけで樹医で施術され人間でいうならば包帯だらけの身を寒風に晒していた。見る目に痛々しさを覚えた。
 脇本陣は木代の姓でかって醤油製造を営んでいた。今は町営の観光施設になり、最奥に「さくら茶屋」の食事処になっていた。天井が低くて重厚な木造構えが光を吸い取ってしまい薄くらい空間をかもし出す雰囲気は、いずこの本陣でも同じ。
 たたきの土間に巨大な醸造樽があった。
 一組のカップルが食事を終えるとわれわれ3人だけになってしまった。たった一人の女性係員の話を聞きながら和蕎麦を食べる。
 県道58号線を蒜山に抜けるつもりだったが、野土路乢が台風で崩壊して通行禁止になっているとのこと。予定変更止むなし。
 
 帰路、花見山に立ち寄った。
 スキー支度で草原は見事に刈り払われいつ積雪があっても万端整ったゲレンデに変貌していた。マツムシソウが一区画に点在していたのがせめての慰めであった。
 
 

新庄宿界隈

2004年11月13日
                ★
 叢はもう枯れていた。
 水気をなくした葉は穏やかな冬晴れの陽を浴びて、葉擦れの音も立てずに直立していた。
 晩秋に強いキク科の植物も夜半の冷え込みに遭いさすがに窶れを隠し切れず花弁がいびつに垂れて晩節を迎えていた。
 草際をカメラを持った3人の男女が残り花を探していて、一輪の花茎を見つけたが、それは青紫色の花弁を硬く閉じ込み葉は枯れていた。叢に踏み込んで分け入ってみると、そいう状態のリンドウはあちこちに見つけることが出来てまだ青味の残る葉などリンドウに出会うと、叢に没してシャツターを押していた。目になじむと青紫の色に焦点が良く合い、4〜6輪の株立ちが叢に蹲っているのを見つけると歓声があがった。オチョボ口のように、此花独特の花咲きをアングルを変えてひとしきり撮る。
 やがて撮るものがなくなって、車の傍にかたまり、コーヒーを飲み、澄んだ高原の空気を味わっていた。
 ときたま乗用車が何の用事か知らぬが通過した。人息れが絶え、野鳥のさえずりさえ聞こえない。耳の奥がツンと鳴るほどの静かさだ。
 草原の中に一筋の踏み道がついていた。人一人が通れるほどの道で、頂に登りつめる手前で杉木立の鬱々とした林のなかに消えていた。
 その口から一人の老婆がおりてきた。ひざ上を覆う枯れ草を分けて、頭に手ぬぐいを被り、モンペ姿で腰は大きく前にたおれていた。溝口正史の小説を思い出す雰囲気だった。
 彼女は右手にビニール袋をつかんでいて、一見、それはキノコと分かるもので膨らんでいた。
「茸がようけぇ採れましたですか?」
 広場に降り立った彼女に声をかけた。
「はあ〜・・」
 返事とも息切れともつかない声を発して、立ち止まり、腰を伸ばした。
「ちょつと見せてつかぁさい」
 老婆はしゃがみこみビニール袋の口を広げた。
 ほぼ袋の6割を占める量だ。
 見たことがない茸だった。茶一色で艶のある笠の裏は長くて深いヒダがあった。笠に枯れ杉葉、石突に黒土が付着していてキノコ特有の芳香が流れてきた。
「・・・茸ですらぁ」と言った。聞いたことのない名前で、たちまち記憶から霧散して忘れてしまった。
「煮物や吸い物にしたらおいしいんでな」とビニール袋のなかで広げて見せてくれた。
「百姓も今は暇でな、ちょっと山ぇはえってきて採ってきましたんぞな。よう知っているけぇ採れました、へぇ」
「これがマッタケならたいしたもんですなあ」
「そりゃ、またたまげたことになりますらぁ」と、老婆は腰を据えて話し出した。
「この辺の山もあれましてなあ、先の台風じゃうちの山も風が吹いて、40年50年のわが子のような杉が倒されましてなぁ、あの公園ちかくですがなぁ、よその反対側は倒れずうちのほうばぁ倒れました。じいさんがどうすりゃあこげぇなもんいうてなげぇてなさるが、道えおちたもんは公で切ってくれましたんですが倒れたもんは切ると撥ねますけなぁ、あぶねぇですらあ、売っても使いもんなりゃあしませんしな、買うてくれりゃあしませんがな」
 腰をあげた老婆は、
「やれ、ぐちをこぼしました」と、長年の農耕で曲がった腰と鍛えた足取りで下り勾配を歩いて行った。
               
 
 道の駅過ぎて左折、毛無山への山道を走る。山際の寂しくなった山野草を拾い写しながら女滝、不動滝(雄滝)あたりから紅葉が濃く植林とのコントラストに目を張る。奥深くになれば全山が燃えるように紅い。ナナカマド、ウルシは特に真紅。段帳の雲が残念。
 岐路を土用ダムにとる。山越えしてさらに左折して人どころか車さえ行き合わぬ深山を貫く紅葉ロード。耐え切れなくなって雲が時雨を落とし始めつむじ風が舞い葉を吹き、視野が乱れる。たった1台がたとえようもなく侘しくなり、人家もないのに突然墓地が現れて慄く。クマ出没のニュースは真新しい。路上に黒い塊が動いていてもおかしくない環境である。
 それでも右足はアクセル踏み込む。
 木木に埋もれた土用ダムの堰堤が見え、右手にダム見学路の標識があって鉄製ゲートが不気味に開いていた。余程引き返そうかと思ったが見事な山燃えに牽かれて車を乗り入れる。1キロほどの山腹を縫う紅葉樹海道はとてつもなく遠い。
 堰堤広場に着くやいなや驟雨の有様。ダムは深淵で魔物が潜む様。雨を突いて車外に出て撮影する。背後で山がザワザワ騒ぎ獣に肩を叩かれ、る気がしてギョとなり、早々に車に入る。
 中電の発電用ダムで鎧に似たゲートが立ち入りを拒み監視カメラが動く。
 毛無山道に戻ると人里が散見されるのでホッとしたのは確かだ。雲は散って雨を遠ざけた。
 山の家に駐車してしばらく歩く。真冬に冷蔵庫の扉を開けているような冷気が登山道から吹いてくる。その中から、関西弁を使う登山客がポロポロ吐き出されてきた。
 帰路、旧出雲街道に逸れてみたがやはり細道の杉木立に埋没したので引き返した。
 181号線は勝山でとっぷり日が落ちた。
 紅葉探訪撮の1日が終わった。

山野草夜話

2004年10月31日
=セイタカアワダチソウ=
 
 一時代、猛烈な勢いではびこった植物。鉄道沿線では秋の風物詩のように黄色に染め上げ電車が通過すると見事に波打っていた。輸入品に付着して渡来しそれを運ぶ貨物列車が沿線にふりまいて繁殖していったという。嘘か真かしらないが、沿線の線路きわ、空地、山に多く繁っていたのはたしかである。それがしだいに山奥にも見られるようになって、このまま蔓延するとなると困ったものだと思っていた。
 なにしろ繁殖力が抜群に強い。刈れば刈るほどに増殖していくので放置するしかないと聞いた。花粉症の元凶ともいわれたりしたが、このほうはもともとの杉や花粉を飛ばす樹木のほうが有罪だと、評価の見直しされているのは結構なことだ。
 最近の新聞にコラムが載っていて、在来種を駆逐してまでの繁殖力にもかかわらず、一定の増殖を果たすと自己衰減の作用をおこすそうだ。
 自然界で一種が席巻するのは異常なので、これはこれで結構なこと。そういわれれば、沿線のセイタカアワダチソウは一時の勢いがないように見られる。
 文献で調べると北アメリカ原産で明治時代に渡来したようである。渡来の経緯はさだかではないが太平洋戦争後に爆発的に殖えたとのこと。招きもせずにやってきて真っ先に沿線を凌駕したところをみると、やはり穀物袋に付着して上陸、貨物列車が一役かった話が信憑性を帯びてくる。
 セイタカアワダチソウは日本の山野を彩るアキノキリンソウと同属である。
 

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