黒田官兵衛のドラマ化で備前市福岡地区はにわか熱を帯びて賑わっているそうな。岡山市の東に隣接している集落だから一足でいけるところ、だが辺鄙な印象で出向いたことがない。
 昔昔は吉井川河口に近い立地で高瀬舟寄留地の便で流通の拠点とならしたようで碁盤目の家並みなどからその縁をのこす程度、中国山地から運ばれる良質の鉄鋼をとりいれた長船の刀鍛冶で栄えたようだ。他にこれといった要素がないからいつからさびれて衆目に値しなかった。
 黒田の出目は滋賀県の近江人、黒田という地に拠る、文献を繰ると近江源氏の佐々木氏の支脈につながる記述がみえるが実際は流浪の牢人家族であちこちを放浪していた。曽祖父の時代に親戚がいるということから備前福岡に流れついている。家人の糧を得ることといつかは侍で一家をたてたい思いだったようだが目薬の漢方薬製造販売があたって糧を得るようになった。
 いく年を重ね歴史の表舞台に官兵衛の名が出るのが播州御着の士豪小寺政職に伺候したあたり、当時は戦国時代、室町時代の後半、東に織田信長、西に毛利輝元の勢力にはさまれた姫路の小城城主として御着士豪小寺家の家老に任じ、織田信長への旗色を鮮明して小寺家衰亡ののち信長臣下に召抱えられて中国制覇の武将羽柴秀吉に参謀の地位であずけられた。
 その後の物語は歴史書に書かれている通り、高松城の水攻め本能寺の変での中国大返しなど秀吉天下取りに軍師の采配を存分にふるって貢献している。
 こういった卓抜した知略能力をもつ人間はつねに上昇志向を内包しているもので
官兵衛も例外でなく、いつかは天下取りを狙っていたようだ。才気ばしってだれも思いつかない軍略を策す官兵衛を恐れて秀吉は次第に警戒するようになり、官兵衛は先手をうって隠居して如水と号したがギラズク野心は消えるはずもなく、関ヶ原合戦のとき息子長政を徳川東軍にくみさせ己は世の混乱に乗じて九州をたいらげ、やがて関ヶ原合戦勝者と天下分け目で対峙しょうとした。その企ては九州平定する前に関ケ原が終息したので霧散に終わったが、帰陣した長政に対し、近侍のさい何故家康を刺殺しなかったのかと詰った話しは野心家武人をふんぷんとさせていて有名なな部分である。
 あくまで黒子に徹するかどうか別にして、組織の中枢に軍師なみの人物は欠かさざる存在であろう。 












コメント

SU

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索