prose-幕末軌跡の一閃
2013年1月16日 趣味 岡山県立博物館で午後の半日をすごした。
幕末の大政奉還から江戸城の開城は「無血クーデター」といわれている。
ここまでいたった舞台の上には坂本龍馬をはじめ薩長の、幕府方の志士、公武合体派の藩主がキラ星のごとく躍り出て鮮血ながす活動している。いうなれば彼等は最前線の実践部隊の英雄だったが役割は演出者に過ぎず、大立者役者は江戸城で会見した勝海舟であり西郷隆盛であって、いわく政治感覚者と武力感覚者の双者対決によって革命は終結した。
県立博物館で開催されている「坂本龍馬と幕末の土佐」は龍馬の人間性をも織りこんだ足跡をたどりながら武市半平太、中岡慎太郎、後藤象二郎の遺文を沿わせて重厚な流れになっている。
風雲つげる岡山における痕跡は重大な事変にしては小粒ほどのものだった、と断じるほどの知識はない。しかし史実にして大きい蠢動を残さず時代に加担した傑物を輩出しなかったのも事実だろう、薩長肥と京都をむすぶ山陽道の要所に位置しながらである。知り得て現地を見て歩いたのは下記の如し。
・第二騎兵隊の浅尾陣屋(現総社)襲撃。
・筆頭家老の伊木氏や藩士による勤皇志士の庇護。
・備中松山藩(のち四国松山藩との混同を避けて高梁藩と改名)の9代藩主板倉勝静(徳川吉宗の玄孫)が老中首座兼会計総裁に任じられて幕府方の一翼になり函館五稜郭の戦いに参謀として戦ったが、信頼する家臣山田方谷の説得によって恭順を示している。
・戊辰戦争で官軍に反抗の旗をふった傑物、越後長岡藩の家老になった河井継之助が玉島港(高梁藩の飛地)に上陸し同じ陽明学者の山田方谷を訪ねての知己を得ている。
-などであろうか。
倒幕の薩長戦列の後備についたり新政府の命で備中高梁城の接収行動をおこしたりしている岡山藩がなべて穏便な態度をとっているのはDNAに拠るものだとおもっている。
池田氏の祖、恒興や輝政は勇猛な戦国大名で織豊徳時代の重臣であったが、節々で養子存続を余儀なくしている。
幕末期の9代藩主は勤皇尊攘の雄である水戸徳川斉昭が9男茂政を養子にしている、実兄が最後の将軍徳川慶喜であるからその位置としては幕府と勤皇に両足をかけて一方向の勢いに乗るものの、旗幟鮮明にして雄雄しく時代を切り開く選択がとれなかったのではないのか。
幕間の瞥見である。
幕末の大政奉還から江戸城の開城は「無血クーデター」といわれている。
ここまでいたった舞台の上には坂本龍馬をはじめ薩長の、幕府方の志士、公武合体派の藩主がキラ星のごとく躍り出て鮮血ながす活動している。いうなれば彼等は最前線の実践部隊の英雄だったが役割は演出者に過ぎず、大立者役者は江戸城で会見した勝海舟であり西郷隆盛であって、いわく政治感覚者と武力感覚者の双者対決によって革命は終結した。
県立博物館で開催されている「坂本龍馬と幕末の土佐」は龍馬の人間性をも織りこんだ足跡をたどりながら武市半平太、中岡慎太郎、後藤象二郎の遺文を沿わせて重厚な流れになっている。
風雲つげる岡山における痕跡は重大な事変にしては小粒ほどのものだった、と断じるほどの知識はない。しかし史実にして大きい蠢動を残さず時代に加担した傑物を輩出しなかったのも事実だろう、薩長肥と京都をむすぶ山陽道の要所に位置しながらである。知り得て現地を見て歩いたのは下記の如し。
・第二騎兵隊の浅尾陣屋(現総社)襲撃。
・筆頭家老の伊木氏や藩士による勤皇志士の庇護。
・備中松山藩(のち四国松山藩との混同を避けて高梁藩と改名)の9代藩主板倉勝静(徳川吉宗の玄孫)が老中首座兼会計総裁に任じられて幕府方の一翼になり函館五稜郭の戦いに参謀として戦ったが、信頼する家臣山田方谷の説得によって恭順を示している。
・戊辰戦争で官軍に反抗の旗をふった傑物、越後長岡藩の家老になった河井継之助が玉島港(高梁藩の飛地)に上陸し同じ陽明学者の山田方谷を訪ねての知己を得ている。
-などであろうか。
倒幕の薩長戦列の後備についたり新政府の命で備中高梁城の接収行動をおこしたりしている岡山藩がなべて穏便な態度をとっているのはDNAに拠るものだとおもっている。
池田氏の祖、恒興や輝政は勇猛な戦国大名で織豊徳時代の重臣であったが、節々で養子存続を余儀なくしている。
幕末期の9代藩主は勤皇尊攘の雄である水戸徳川斉昭が9男茂政を養子にしている、実兄が最後の将軍徳川慶喜であるからその位置としては幕府と勤皇に両足をかけて一方向の勢いに乗るものの、旗幟鮮明にして雄雄しく時代を切り開く選択がとれなかったのではないのか。
幕間の瞥見である。
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