prose-落魄-1

2012年11月20日 趣味
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「平清盛」も大詰めにさしかかった。
 歴史をひとつまみしてみる。

 朝廷の摂関は藤原家の祖になる鎌足以降代々藤原家の者が就いていたが、平安末期、位階をのぼりつめた平清盛がその権力を踏襲した。プライドにまみれていた天皇・公卿は面白うはずがない。魑魅跳梁の画策が次々に出来した。平家追落としの策謀である。治承2年の、時の関白・藤原基房が図った事件はまさしく緒端のそれでことの顛末に怒った清盛は基房を備前に流刑に処した。

 基房の経歴を調べると内大臣、右大臣、左大臣などの高官を歴任しており、兄の近衛基実が早世すると、その息子である近衛基通が幼少のため、六条天皇の摂政に就任している。仁安3年(1168年)2月、六条天皇が高倉天皇に譲位すると、引き続いて摂政を務め、嘉応2年(1170年)12月には太政大臣、承安2年 (1172年)12月には関白をきわめている。
 盛子と平重盛が死去すると、基房はその遺領を清盛に何の相談も無く、後白河法皇と謀って没収するという反平氏的政策を打ち出した。これに清盛は激怒して同年11月、軍を率いて福原から上洛し、クーデターを起こす。清盛の軍事力の前に基房が抗せるはずもなく、直ちに反平氏的公卿と見なされて解官されたうえ、大宰権帥に左遷される[6]。 途中備前国で出家する事でようやく同地滞在を許された。その後の治承4年(1180年)12月になって、ようやく罪を許されている。

 その流刑地の備前はいまでいう中区湯迫にあたる。


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