prose-乱世は繰り返す②
2012年6月5日 趣味 保元の乱以降、朝廷政治は急速に失墜していった。朝廷内の骨肉の争いがこれをもたらし、領土拡大と蓄財で財をなした有力武士が不満に猛る地方豪族を味方につけて台頭してきた。特に平清盛を筆頭に平家一族の勃興は著しく朝廷の中枢を掌握するまでになった。
そこで公卿が集い平家打倒の謀議を図った。世にいう鹿ヶ谷の陰謀である。
後白河が静賢の鹿ケ谷山荘に御幸した際、藤原成親・西光・俊寛が集まり平氏打倒の計画を練った。しかし内通で清盛の知るところなり、残らず捕縛された。藤原成親しかり。
藤原成親。
父・家成が鳥羽法皇の第一の寵臣であったことから昇進は早く、康治元年に5歳で従五位下に叙せられる。天養元年7歳で越後守になって以降、讃岐守・侍従・越後守を歴任する。父同様に鳥羽法皇の側近となり、保元元年4月には院宣により賀茂祭の祭使に選ばれ、19歳で左近衛少将に任じられた。藤原頼長が永治元年、成親の兄・家明が左少将になったことを「諸大夫の僣上」と非難しているように、近衛少将は本来なら上流貴族の官職だった。成親が左少将となったのは、家成一門の家格の上昇と鳥羽法皇の厚い信頼を物語るものといえる。同年7月、鳥羽法皇の葬儀で成親は、信西らとともに入棺役を務めている。
鹿ヶ谷陰謀では備前・下津井に配流、後日吉備に再配流され此処で謀殺された。
家系の温存、身の保身のため蜘蛛の糸のように姻戚を絡めており、成親の妹が清盛に嫁ぎ清盛の娘が藤原家に嫁いでいて、その因縁の深さは一端争いごとになると感情が加わった残虐さがみられる。
吉備中山の麓を走ると、吉備津彦神社と吉備津神社の中間どころに、備前と備中の境界となる細谷川が文字どうりか細い水を流していて鼻ぐり塚がある。
そこで公卿が集い平家打倒の謀議を図った。世にいう鹿ヶ谷の陰謀である。
後白河が静賢の鹿ケ谷山荘に御幸した際、藤原成親・西光・俊寛が集まり平氏打倒の計画を練った。しかし内通で清盛の知るところなり、残らず捕縛された。藤原成親しかり。
藤原成親。
父・家成が鳥羽法皇の第一の寵臣であったことから昇進は早く、康治元年に5歳で従五位下に叙せられる。天養元年7歳で越後守になって以降、讃岐守・侍従・越後守を歴任する。父同様に鳥羽法皇の側近となり、保元元年4月には院宣により賀茂祭の祭使に選ばれ、19歳で左近衛少将に任じられた。藤原頼長が永治元年、成親の兄・家明が左少将になったことを「諸大夫の僣上」と非難しているように、近衛少将は本来なら上流貴族の官職だった。成親が左少将となったのは、家成一門の家格の上昇と鳥羽法皇の厚い信頼を物語るものといえる。同年7月、鳥羽法皇の葬儀で成親は、信西らとともに入棺役を務めている。
鹿ヶ谷陰謀では備前・下津井に配流、後日吉備に再配流され此処で謀殺された。
家系の温存、身の保身のため蜘蛛の糸のように姻戚を絡めており、成親の妹が清盛に嫁ぎ清盛の娘が藤原家に嫁いでいて、その因縁の深さは一端争いごとになると感情が加わった残虐さがみられる。
吉備中山の麓を走ると、吉備津彦神社と吉備津神社の中間どころに、備前と備中の境界となる細谷川が文字どうりか細い水を流していて鼻ぐり塚がある。
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