博多と小倉は、いうなれば巨大都市である。どちらの町も高層ビルの林立で早くからの発展を誇示している様子がながれる車窓を見ていると実によく分かる。その点、岡山市の場合は眞に長閑で低層建築の田園のような風景であるのが、これまた再認識できる。列車の旅の、しかも鈍行のいいところだ。
 比較してどちらがいいかなどとはいいたくはないが、産業経済の核となりうる地盤があるかどうかで人口の集積度に大きく差がでている実証である。大きくなりすぎると、変革の時代は振幅の影響をもろに受けやすいから、気候温暖で土着性の強いこじんまりした岡山のほうが、粗野で根張りがあるの分、困窮に耐えうる要素があるのではないかと、ビール片手につらつら思う。岡山はしかし波瀾やドラマチックの趣にはいささか物足りないのではないのか、これは一重に気候風土が育んだ土着だと察する。決まりきった器しか持たない県民性にもよるのだ思うのだが、どうだろう、だからといってこういった県民性は俄かに急きたてられて大きな器で酒を喰らえなどといわれたら、きっと身を滅ぼすにちがいない。
 古くから博多は半島の色濃い商人の町、小倉は炭鉱の町といわれ商才と度胸は筋金入りである。古代~中世~群雄割拠~明治維新の形がちがうのだから同じ物差しで背丈を計ってみても比較にならない、なりたちの地域性に磨きをかけるのが正等というのが、ちょっとだけ温まった肌身に感じてよく分かるのだ。
 博多を抜けると鈍行の車内の雰囲気がぐんと変わってきた。目から鼻に抜けるような人とか恰幅の為りのいい人がいなくなり、ガラガラの車両のなかは田畑に馴染んだ人たちが細切れに乗降を繰り返したりしててローカルの味わい満腔である。
 小倉に近くなると、博多とは異なる地味で華やかな(?)ドレッサーの男女が多くなり、大都会と変わらぬ私服の学生が混じってきてゴチャ混ぜ御飯の雰囲気になってきた。
 見るからにコンパでも掛け持ちで徘徊するような扮装の人、渋谷か原宿を流すような人、しっとり落ち着いた人、入れ歯の噛み具合を調整している人、むきたての卵の顔で真っ赤なほっぺたをし人・・・、多くは寡黙で滅多矢鱈にガムをグチャグチャ鳴らしてケイタイをガチャガチャやって、遊んでいるのだ。突然、空気を裂帛して大笑いするアベック、まこにもって恐れ入って候、である。
 そういった集団を乗せて電車は小倉駅頭に滑り込み、おしとやかな田中裕子ばりの婦人をふくめて小倉駅の雑踏に消えていった。(続)

 HP山野草探訪撮
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