歴史ルポー2
2008年7月16日
庭瀬城址に隣接している撫川城址に出かけた。
庭瀬城址よりさらに西へ300mほど、露地のような通りを車を走らせると、ちびっこ広場がありその北に城址があって、巨木の杜が見えた。
広場に停車して歩く。堀が周囲をめぐらして当時の石垣や土塁が風情を残して蝉の棲家になっていた。城ごとき面影は堀と石垣いがいにはない。三村家親が対宇喜多直家の前線基地として築城した典型的な沼城。目的からして規模や構造に本格的な建築物ではなかったのかもしれない。後年建てられた庭瀬城の一郭のなったようだから、禄高一万石では、いずれのものも城ではなく[陣屋]程度の規模と推察する。
最終的な統治者戸川氏が領域は早島にまで及び、[早島陣屋]なるものが史実にあるので、ナビで検索して立ち寄ることにした。コンベックスを越え2号線の早島交差点で左折、小高い丘陵を軽四輪でさえ離合不能な道を登ると、戸川記念館なるものがあるにはあるものの普通の民家のたたずまい、土日祝日しか開館しない、との看板がある。周囲は軒を重ねるように民家でうまっていて、とても陣屋のかけらすらみられない。
通りかかった老人に尋ねると、戸川記念館以外には陣屋に関係したものは皆目ないとのこと。
兵どもの夢の跡が、今に偲ばれる。、
庭瀬城址よりさらに西へ300mほど、露地のような通りを車を走らせると、ちびっこ広場がありその北に城址があって、巨木の杜が見えた。
広場に停車して歩く。堀が周囲をめぐらして当時の石垣や土塁が風情を残して蝉の棲家になっていた。城ごとき面影は堀と石垣いがいにはない。三村家親が対宇喜多直家の前線基地として築城した典型的な沼城。目的からして規模や構造に本格的な建築物ではなかったのかもしれない。後年建てられた庭瀬城の一郭のなったようだから、禄高一万石では、いずれのものも城ではなく[陣屋]程度の規模と推察する。
最終的な統治者戸川氏が領域は早島にまで及び、[早島陣屋]なるものが史実にあるので、ナビで検索して立ち寄ることにした。コンベックスを越え2号線の早島交差点で左折、小高い丘陵を軽四輪でさえ離合不能な道を登ると、戸川記念館なるものがあるにはあるものの普通の民家のたたずまい、土日祝日しか開館しない、との看板がある。周囲は軒を重ねるように民家でうまっていて、とても陣屋のかけらすらみられない。
通りかかった老人に尋ねると、戸川記念館以外には陣屋に関係したものは皆目ないとのこと。
兵どもの夢の跡が、今に偲ばれる。、
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