本丸下の段、かってテニスコートがあった広場の一番東が今回発掘調査した場所。それ以前は旧制中学の寄宿舎があったそうだ。発掘は今年度から4年をかけて行うとのこと。
 1700年(元禄13年)に作成された[御城内御絵図]に拠るところの築構が、試掘したときに見られたそうで、これが今回の本格的発掘の実施につながった。
 調査が一段落したので公開現場説明が行われ、おっとり刀でかけつけた。
 現れたのは蔵、役宅住居が主体で、これに関わる井戸、手水受けの排水路、曲輪等である。
 これらの建物の礎石が見事に並んでいた。しかもいずれの礎石や平面が2段になっていて、宇喜多秀家時代から池田前期において建替えられたことを示すそうだ。蔵は鉄砲や火薬貯蔵に用い、役宅跡に東西に突き出た礎石は出入り口にあたり、便所の使用後の手洗い水を受ける瓦を縦に埋められた箇所、曲輪の無数の柱穴も頻繁に建替えた跡と想う。すべて[絵図]上で推察した通りの遺構だそうで、新しく出てきたのは、蔵の南西角の地鎮祭を行った素焼き壷の位置、そして曲輪の南に虎口と呼ばれる外からの出入り口、つまり城へ通じる南門に価するもの。宇喜多か池田前期かは不明だそうで、ここから権(竿秤のおもり)、宇喜多五三桐紋の瓦片、池田揚羽蝶紋瓦片、鯱片、硯などが発掘された。これらはいわば先の戦災後、整地のときの捨て場にあてられたようだ。
 鯱瓦片には金を施した痕跡が伺える。
 東南にある井戸は石組みで現時点の発掘は4・5mで、さらに深く、下になるほどに膨らみ、フラスコ状とのこと、中から出てきたものを推測して、明治まで延々使用の跡が見られるとのこと。
 この先発掘域が広げられるだろう。

 思いがけづ旧知の小橋氏に出会うことができた。

 画像ルポは後日[新おかやま画像ルポ]に掲載したい。

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