自分の出目が気になる年齢になった。
由縁の地を、以前息子が探索していたので,いつかは出かけてみようと思いつつ今日まで歳を重ねてきた。
 俄かに寒くなった日、秋の日差しを受けながら腰を上げて家族で播州路を走った。
 鵜野家の祖は兵庫県作用と聴いていたのは随分昔のことである。代々両刀が伝わっていたから士分であろう。小学生のとき床の間の引き出しにあったのでそれを無断で持ち出し、柿木に切りつけたりして遊んでいた覚えがあり、それ以後紛失させて自責の念穏やかならぬものを積年内包して過ごしてきた。今となってはただただ低頭詫びるしかない。
 国道2号線の船坂峠を下りきって、国道373号線は千種川に沿ってひたすら北上、上郡中心部を抜けて上月町に入るとやたら城址の案内板が目に付くようになった。右手に見える白旗城址は南北朝時代に新田義貞と赤松勢が戦塵をあげたのが太平記にでてくる。
 途の作用川の枝道へ走ると、山裾に上月城址の大書の看板があらわれた。そこへ向かって本道を逸れ、歴史資料館の駐車場で停める。
 見上げると、両側に山が迫る谷間で、右が大平山、左が荒神山である、およそ650年前に赤松景盛によって大平山に築城され、後年水利の都合とかで左谷向かいの荒神山に移築されて今日の上月城址に及んでいた。
 大手門のあったところに登山口がある。たかだか標高194mの丘陵であるが急峻の登山道で息つく場のないまま頂上に至る。
 頂上近くになると堀切という防御の空堀を峰筋に見ることができ、曲輪であったろう平地が散見されるものの、草群れて兵どもの夢の跡が伺えるだけだ。
 本丸があった頂上の平地は意外と小さい。建造物や遺構に類するものは見当たらない。ここに織田&毛利の大軍が押し寄せ歴史に残る上月合戦がくりひろげられたとは、とても思えないほどの規模だが、当時は近畿と中国とをつなぐ要衝の地域であって、守護大名赤松勢が播州から備前の頭部にかけて領布し権勢を振るっていた。天下を狙う者、この地とこの守護大名をなんとかしなければ西下出来ないし東上も叶わない要衝なのであった。これ以降、歴史に残る戦矛が上月城を枢軸にして繰り広げられたのである。世が乱世といわれだしたのは応仁の乱以降。
 中国制覇への切幕は、天下統一を狙う織田信長。
 上月を破らないと中国侵攻がかなわず、かたや毛利としてはそれを阻むべく最重要の前線の攻防拠点。
 織田信長は中国攻略の先陣を豊臣秀吉に命じ、秀吉は毛利方に組みした守護大名の城主赤松政範を上月城に攻め、赤松支援の宇喜多をも巻き込んでこれを滅ぼした。政範は切腹、一族は斬首晒しものにされ残る者は北へ北へ落ちのびたのである。
 頂上に三基の供養塔が建つ。正面の大基が赤松蔵人大輔政範君之碑。左面に備前から支援に駆けた宇喜多直家勢の三千騎の主たる戦死者の名。両脇の碑は赤松騎下の一族、重臣、侍大将の名の刻字。
 この名の中に鵜野弥太郎ほか鵜野小太郎、他一名があった。
 後年建立された碑であるが苔生していて、指で字の流れをなぞり斜視にみたりして判読できた。槙や楢のさわつく木漏れ日に漂然と建つ。
 国道を作用駅近くまで戻り179号線にとって走ると南光支所あたりで千種川と姫新線を超えたところに米田城址のこんもりした山がある。堤防の桜紅葉こしに無尽に放置された樹木に埋れていた。この城が赤松から統冶を任された鵜野家の城だ。地域の名が宇野で、転じて鵜野姓になった。現在は地名や姓に鵜野、宇野は残らない。もっと北の山崎に拠り、山脈を越えて作州、備中に拠り散在する。
 登山口を探してそれらしき道を探ったが残念ながら荒れ廃って登れなかった。
 
 短時間で探索した結果、判明したのはここまでだった。
 あとは古文書を繰って櫛目を埋め、一文にしたいと思う。
 遠祖の端を掴むことができたのは収穫であった。

 上月城は落城した後を、秀吉は尼子復興を願う尼子勝久、山中鹿之介に託されたが、宇喜田、毛利連合軍三万に攻められ、はては織田軍に捨てられる羽目に遭い、落城、勝久は切腹、満月に向かって[我に七難八苦を与えたまえ]と叫んだ鹿之介は捉えられ、高梁川の河畔で惨殺されたのはその後のことであった。
 それからは歴史上に上月城は葬り去られた。

 

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